日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第960夜 ギャラリー

夢の話 第960夜 ギャラリー

 十四日の午前二時に観た夢です。

 

 うたた寝から目覚めると、バスの中だった。

 俺は池袋線沿線に住んでいたから、中央線の街で酒を飲んだ後には帰宅するのにバスを使った。新宿や池袋を経由するのは、遠回りで無駄なような気がしたからだ。

 そこで、路線を真っ直ぐ繋ぐバスに乗り、直線的に移動したわけだが、実際にはその方が電車より長い時間が掛かった。

 電車を使えば四十分で行けるのに、その半分の距離をバスで移動すると、一時間以上掛かったのだ。

 だが、性格的に「後ろに戻る」のは向かない。こういう時には必ずバスで帰った。

 

 他にも理由がある。

 バスの場合、街並みを見られるという点だ。

 小さな商店街には、人の暮らしが息づいていたから、そういうのをぼんやりと眺めるのが割と気に入っていた。

 小雨が降っていたりすると、風情は抜群だ。もの悲しくて、故郷に帰りたくなる。

 

 この夜も中野で酒を飲んだのだが、これが割合早くに「お開き」になった。

 駅前で逡巡したが、まだ九時でバスが動いている時間だ。駅の入り口まで行き、そこで身を翻してバスに乗ったのだ。

 新宿線を超えると、商店街が途切れ、住宅街に入る。

 見るものも無くなるので、ついうたた寝をしていた、というわけだ。

 

 ぼんやりと考え事をしていると、突然、バスが「キキーッ」と急ブレーキを踏み、一時停止した。

 運転手がすかさず、「すいません。危険回避のため急停止しました」とアナウンスした。

 前を見ると、交差点の角を急に車が曲がって来たらしい。一瞬だけ、去り行く車のテールランプの赤い光が見えた。

 「ああここか。ここは見辛いんだよな」

 信号もあるが、そのすぐ手前に横に入る道がある。その道から急に飛び出て来る車があるのだ、これは道路ぎりぎりまで家が建っていて、見通しが利かぬことが原因だ。

 「ここは危ないよな。しょっちゅう事故がある」

 ここでバスが発進した。

 バスが動き出した時に、ふと信号の脇に目をやると、数人の人が立っていた。

 女性と両脇に子どもが一人ずつの計三人だった。

 「あ。またあの母子だ」

 バスに乗り、この交差点を通り掛かる時に、時々、この母子を目にする。

 いつも同じ場所・同じ位置に立ち、じっと佇んでいるのだ。

 「一体、何故あんなところに立っているのだろう」

 バスがすぐ脇を通り抜けたが、母子は下を向いて黙って立っていた。

 

 数日後、また同じ経路でバスに乗った。

 所用で中野を訪れたのだが、帰路何となくバスに乗っていた。

 昼日中だから、それこそ電車で回り道した方がずっと早いのだが、もはや習慣のようになっている。

 小雨が降っており、街を見物するには、ちょうどよい条件だった。

 新宿線を過ぎ、またあの交差点に差し掛かった。

 すると、曇った窓ガラスの向こうに、うっすらとあの母子の姿が見えた。

 「あれ。今日もいる」

 脇を通り過ぎようとした時に間近で見ると、母親のワンピースの裾が汚れていた。

 雨の中、傘も差さずに立っていたから、服が濡れていたのかもしれん。

 だが、車の排気ガスで、薄ら汚れたようにも見える。

 「おいおい。あの母子は大丈夫なのか」

 尋常ではない佇まいだ。

 そもそも、あの人たちはこの雨の中で一体何を待っているのだろう。

 

 「例えば父親だな」

 ここで俺はあれこれ妄想を始めた。

 実はあの三人は生きた人ではない。あの場所で死んだ母子だ。

 左の脇道から飛び出して来た車と衝突し、その事故で死んだ。父親が運転していたが、運転席は右側だから、父親が一人だけ助かった。

 「だから、奥さんと子どもたちは、その父親が迎えに来るのをひたすら待っているのだ」

 自分たちが「もはや死んでいる」ことに果たして気付いているのかどうか。

 「そして、ある日父親が車でこの場所を通り掛かる。もうあれから何年も経っているから、父親は再婚し、二歳の子供までいる」

 そして、その時、ようやく待っていた父親が来たから、母子三人は大急ぎで車の前に飛び出す。それを見た父親は、慌ててハンドルを切る。そして「がっしゃーん」だ。

 「なあんてな」

 ま、そんなホラー小説みたいな展開はあるまいが、いつも交差点にじっと佇んでいる姿を見れば、そんなことも考えたくなる。

 母子に目を向けると、服の汚れはやはり排気ガスだったようで、子どもたちの上着の袖も薄ら汚れていた。

 「服が汚くなるほど、道端に立っているなんて、いったいどんな事情があるのだろ」

 少し薄気味悪いから、あまり考えぬようにした。

 いくら他人の事情に踏み込んでも、それでよいことが来るわけではない。

 

 その次の週に、また同じバスに乗った。

 荻窪で所用があり、その帰りに中野で飯を食べることにしたのだが、腹がくちると電車に乗るのが億劫になる。タクシーで向かおうかとも考えたが、やはりバスにした。

 この時、ようやく母子の謎が解けた。

 あの交差点に差し掛かった時のことだ。

 三十㍍手前にバス停があり、バスがそこで停止した。

 すると、後続車がバスの横を通って、次々に追い越して行った。

 この時、俺は前の方を見ていた。あの母子がいるかどうかを確かめるためだ。

 「やはり今日もいた」

 母子はいつも通り、薄汚れた服を着て、交差点の角に佇んでいたのだ。

 ただ昼過ぎのことだから、いつもほど違和感を覚えない。日常にありがちな街の景色に見える。

 だが、いつもと違ったのは、その母子が顔を上げたことだった。

 三人は顔を上げ、俺の乗るバスの方を見た。

 

 まさにこの時のことだ。

 バスの横を追い越そうとした車が急にスピードを上げた。対向車が見えたから、急いで追い越し、元の車線に戻ろうとしたわけだ。

 だが、この車が思い切り速度を高めた時に、左側の脇道から同じようにスピードを上げた車が飛び出して来た。そっちは、バス停でバスが止まっているから、その隙にバスの前に出ようとして脇から飛び出たのだった。

 がっしゃーん。

 双方がアクセルを踏んだ直後だったから、二台がまともに当たり、車体がぐっしゃりと潰れた。

 だらだらとガソリンが零れ、今にも引火しそう。

 「おいおい。あれに引火したら、車の人どころか、このバスだっていかれてしまう。運転手さん、早くここから離れて!」

 俺が叫ぶと、運転手はすぐにギアを入れ、発進しようとした。

 だが、エンジンが掛からない。

 「ギャギャギャギャギャア」とギヤが擦れる不快な音が響く。

 

 この時、俺は顔を上げフロントガラスの向こうに視線を向けた。

 すると、あの母子三人が交差点を離れ、事故現場のすぐ近くに立っていた。

 

 それを見た瞬間、俺は総てを理解した。

 「なるほど。あの三人はギャラリーだったのか」

 事件・事故の現場には野次馬が集まるわけだが、そういう「生きた見物人(野次馬)」の他に「既に死んでいる者」も同じように見に来る。

 人が死ぬ時、その人の周りには、「人の死期を見届けよう」とする見物霊が現れるのだ。

 野次馬と違うのは、そんな幽霊たちは、ゴルフのギャラリーと同様に、声を一切出すことなくプレイヤーを見守る。

 あの母子はここで事故が起きることを知り、人が死ぬ場面を確かめるために幾度も足を運んでいたのだった。

 ここで覚醒。

 

 ホラー映画では、この先、「主人公が火に包まれて死ぬ」展開になると思うが、この夢の「俺」が死ぬことはない。夢の「俺」は直感が働くので、窓が旧式で「開けられる」と見るや、さっさとそれを開けて、そこから外に出ると思う。

 直感は多くの場合、何の役にも立たぬが、「生き死に」の懸る状況では、ひとの生死を分けることがある。

 少し捻ると、短編になりそうな素材だ。