日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎死に方もひとはそれぞれ

死に方もひとはそれぞれ

 さすが専門の人の話は面白い。

 土曜に通院した際に、ベッドで看護師のサトーさんと話をした。

 サトーさんは私と年齢の近いオバサンだが、私同様、「あけっぴろげ」(または「ノーガード」)なので、いつも突っ込んだやり取りがある。

 

 この日の話は「ビルから飛び降りた人」のことだ。

 人生に絶望し、自死しようと、建物の上の階から飛び降りたとする。

 普通の人は「途中で意識を失ってしまう」ことが多く、体が弛緩するから、頭から落ちる。(ここは「固い覚悟で飛ぶから」というケースもあると思う。)

 このため、まず助かることはない。

 

 ところが、知能に障害のある者が上階から飛んだ時には、意識を失うことが無いらしい。

 こういう人には苦痛回避のスイッチが入らないようだ。

 それで、空中で無意識に足から落ちようと体を動かし、実際に足から落ちることが多いとのこと。

 ここは自己防衛の本能による。

 

 結果的に、自死を選んだ普通の人は、まず助かることがないのだが、知的障害のある人は5、6階から落ちても割合助かる。

 生垣の中に足から落ちたりすれば、脚や骨盤を骨折したりするが、命は損なわれない。

 

 もちろん、死んだ者には肉体的苦痛は無くなるが、生き残った者は大変だ。複数個所を骨折し、それが骨盤や背骨だったりするから、自死を決意する以前の状況よりもしんどくなっている。

 生き残った人の事例では、半年間の入院治療を受け、その後もリハビリ生活に入った人がいるそうだ。

 幸か不幸か、その頃には自死する気持ちなどさらさら無くなっている。

サトウさんとの会話はここまで。この先は私の領分で、サトウさんには話さなかった内容だ。

 

 苦痛から逃れるために自死を選ぶと、どういう仕掛けかは分からぬが、死の直前直後の姿のまま、この世を彷徨うケースがある。

 これはどのくらい「思い詰めたか」というこことに関わっているようで、病気を苦にし先w見越して死を選ぶ者は、あまり出歩いてはいない。

 本人が選ぶ要素に加え、「遠からず訪れる死」を自覚しているからではないかと思う。

 だが、健康状態に問題が無く、経済的理由や他者との関係に絶望することにより自死を選ぶ場合は、死後もそのまま死の直前の気持ちを反芻することがあるようだ。

 心がその時のままなので、姿かたちもその時のままでいる。

 

 縊死した者は縊死の時の姿だ。首を吊り、そのままでいると、圧力で眼が眼窩から飛び出し、口から下がだらりと垂れ下がる。

 ビルから飛び降り、頭からコンクリートに激突した者は、頭が潰れた姿で道を歩いている。

 心の中は自分のことで一杯だから、何をするわけでもなく、彷徨っているのだ。

 

 ごくたまに、こういう姿が画像に残ることがあるのだが、さすがにその場で捨てる(破棄する)。

 保持しても、あの世を理解するのに何の助けにもならぬからだ。

 そればかりか、「あの世=恐ろしいもの」という誤った認識を助長することになってしまう。

 「あの世」や愚弟的には「幽霊」を恐ろしいものと見なす考え方は、基本的に誤っているし、実際には何ひとつ見えていないと言える。

 

 幽霊はいずれ誰もが通過するステップのひとつだ。それを「恐ろしいもの」として捉えて、どうやって先に進めるのか。

 人間には善人もいれば、他者に悪さを為す悪人もいる。悪人の所業のみを捉え、「人間は恐ろしいもの」と位置付けるのは、ちと短絡的な思考だと思う。

 

 ま、ひとの心のうちには悪心が溢れている。ネットのコメント欄を見れば一目瞭然だ。だが、そういう悪心に支配されることなく、前に進んで行くことが大切な姿勢だと言える。

 

 ここで冒頭に戻るが、高齢になり全身を病気に冒された状態ならともかく、若い人は自死を選んではならない。

 精神的苦痛から逃れようと、自ら死を選んでも、その苦痛から解放されることはない。死後もその苦痛を抱え、あてもなく彷徨うことになる。

 そんなことなら、死なずに捨て身で別の道を切り開くことだ。

 それまでの人生を捨て、新しい場所に移っても良い。それで、道が開けるかもしれぬし、開けぬかも知れぬ。だが、今死ねば可能性そのものが無くなる。

 

 以下は私見であり、符牒だ。意味の分かる者はこれまでこのブログに継続的に目を通して来た人だけ。よって、細かい説明はしない。

 神や仏が手を出して救ってくれることはない。

 かたやアモンは「欺瞞を許さず、因果応報を求める」。

 この世とあの世の理不尽さを正すのは、神ではなくアモンたちの方。

 アモンの声を聞け。