日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎昭和は遠くなりにけり

昭和は遠くなりにけり

 昭和の頃は、寄り合いがあると、ヨレヨレになるまで酔っ払い、くだをまくジーサンが沢山いた。

(私の田舎では「ごんぼを掘る」と言う。牛蒡を掘るみたいに長い、という意味だ。)

 大体、そういうジーサンは毎度のことだから、周りの人もあしらい慣れて来る。

 五十歳くらいのオバサンの中には、あしらい担当みたいな人がいて、ジーサンの文句に「そうだよね。※※さんの言う通りだね」とあっさりかわした。

 ジーサンの「ごんぼ」にまともに付き合ってはいられないし、誰かが宥めれば、ジーサンも大人しくなる。

 ただ自分の話を聞いて欲しいわけだ。

 「ジジイは小言を言うもの」だし、ある程度は「そうあるべき」だ。

 ジーサンの小言など、笑って聞き流せ。

 

 平成を過ぎ、令和になったら、こういう年寄りを「うまくかわす」ことをしないで、言質を取って糾弾するようになった。

 張本さんが「女子がボクシングなんか・・・」と言っていたのは、ジーサン根性からで、心の底には「若い女性が顔を殴り合って、傷が残ったらどうするのか」という気持ちがある。

 祖父が孫娘を心配して小言を言うのと同じだ。

 女性差別とか誹謗の類ではない。

 

 こういうのは、「顔を殴って痕が残ったら可哀想だよね」とスルーすればそれで済むことだ。

 張本さんに悪気があって言ったのではないからだ。

 ま、ジーサンだけに表現が下手な部分もある。そこはあくまでジジイなわけで。

 こういう場合は「言い方が乱暴ですよ。丁寧に言わなくちゃ」と窘めると、逆に年寄りは喜ぶ。「そうか。それもそうだな。済まなかった」で一件落着。

 

 こういうのに、いちいち「差別」だの、「蔑視」だのと言い張っていたら、世の中がせちがらくてしょうがなくなる。

 心に奥行きがない。お隣の国を見れば分かるだろ。

 あんな風潮になったら、国も社会ももうおしまいだ。

 

 日本語の表現は奥深いところがあり、言葉通りの意味になるとは限らない。

 「お前はバカだ」という言い方だって、貶している場合だけとは限らない。状況によっては愛情表現の場合もある。

 

 美味い話ではないが、例えばこう。

 息子が鉄道の事故で大ケガをしたという話を聞き、父親が病院に駆け付けた。息子は全治三か月の重傷だ

 「どうしてこんなことに?」

 「酔っ払ってホームから線路に落ちた人がいたから、急いで降りてその人を助けたんだよ。その際、俺の方が引っ掛かってケガをした」 

 「なんで見ず知らずの人のために命を懸けるんだ。お前はバカ者だ」

 

 こういうのは「愛情表現」で、息子のことを案じて言っている。言葉通りのバカ(愚か者)だと思っているわけではない。

 令和の時代では、こういった心情を理解出来ない人が増えたようだ。

 一枚奥(または裏)の心情を見ることが出来ない。

 つまらない、薄っぺらの人生だ。

 

 ここは入江選手が「人生の先輩ですし、本当は心配してくれていると思います。何でもありませんよ」と笑い飛ばせば、それで一件落着だ。

 自身の度量の広さを示し、かつ、少し言外で張本さんに言い返すことになる。

 そもそも、好きでやっているのだから、他人にどう言われようが関係ないわけだし。

 

 そんな風に「四方を丸く収める」という風潮が今では失われつつある。

 始終、都合の悪いことを「誰か(政府や総理など)のせい」と言い張る者ばかりで、奥行きがない。これじゃあ、半島文化と変わりない。