日刊早坂ノボル新聞

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◎『怪談』 第5話 山小屋

◎『怪談』 第5話 山小屋  

 『怪談』は「夢の話」や様々な人の体験談を基に、「本当にあったみたいな作り話」として再構成するものです。これはかなり前に記した話の再録ですが、途中から設定を変えてあります。

 

『怪談』 第5話 山小屋

 ひとの記憶は都合よく出来ている。

 自分に都合の悪い出来事や忘れたい思い出については、記憶の引き出しに鍵がかかり、取り出しにくくなる。

 子どもの頃に誰かに苛められたことは、何十年経っても忘れぬが、逆に誰かを苛めたことは、はるか遠い彼方に去ってしまう。

 思い出すと良心が痛むから、無意識のうちにその記憶を避けてしまうようになるわけだ。

 

 まだ四歳か五歳の時に、私は近所の女の子と一緒に、生まれ立ての子猫を「お風呂に入れてやろう」と水で洗った。それがどういう結果を招くのかを予測できぬ年頃だったので、そうしたわけだが、やはり子猫たちの多くは死んでしまった。

 そうしたら、猫の飼い主が怒鳴り込んできたので、その時の私は「あの子がやろうと言ったんです」と嘘を吐いた。実際には、誰が先に「やろう」と言ったのかは定かではないのに、その子のせいにしたのだ。卑怯極まりない話だが、そこは子どもだ。

 

 それから数十年の間は、そんなことがあったことも忘れていた。

 猫に近付くこともしなかったのは、やはり思い出したくなかったからだろう。

 四十に近くなり、妻の飼う猫に愛着を感じるようになったが、その時に初めて、かつての子猫たちのことを思い出すようになった。このため、また再びあの時の様子を夢に観るようになった。

 その夢を観る度毎に、私は「許してくれ」と猫たちとあの子に謝罪する。

 

 さて、私は今、山小屋の中でこれを書いている。

 一応、物書きの端くれなのだが、売れっ子作家でもないからバイトが必要だ。

 執筆の時間が十分に取れ、なるべく静かな環境が望ましいから、別荘の管理人などが最も望ましいアルバイトだ。報酬はあまり高くなくとも構わない。最低限の生活を保持でき、自由に使える時間がより多くあれば、それが一番望ましい。

 若い頃に夏季アルバイトで別荘地の清掃管理に従事したことを思い出し、今回、高原の「管理人募集」の広告に応募したのだが、既に大半が埋まっていた。

 しかし、その管理会社の人が「山小屋の管理人が急病になり、十月まで代役が必要で」と言うので、私はこれに応じることにした。

 山小屋と言っても、せいぜい二千㍍内外の山の四合目だから、登山客というよりハイキング客までの幅広い客層がこの地を訪れる。

 

 もはや八月の末で、夏休みは終わりだ。週末はともかく、平日の客は少なくなっている。

ま、朝夕には霧が出て、周囲の見通しが利かなくなるから、私としては逆に助かる。

 私が見込んだ通り、夜の時間を執筆に充てられるし、周囲が静かだから、私には望ましい環境だった。

 それに、私自身も山間の育ちだから、こういう景色は、むしろ見慣れたものだった。

 前からこの地に前から住んでいたような錯覚さえ覚える。

 

 この日は休日で、日中には沢山の人が訪れたのだが、午後四時を過ぎると早々に客が居なくなった。

 「週明けには九月になる。明日は月曜だから、もう誰も来ぬだろうな」

 そう思って、片付けを始めたが、それを終え戸締りをしようとすると、目の前の扉をノックする音が響いた。

 扉の鍵を開けると、そこに若い女性が立っていた。

 「すいません。予約を申し込んで居ないのですが、泊めて貰えませんか。霧で道が分からなくなったのです」

 「大丈夫ですよ。今から降りるのは危険ですから、明日の朝下山すると良いです」

 娘を中に迎え入れる。

 

 ストーブの前に座らせ、毛布を渡した。

 陽が陰り始めると、あっという間に空気が冷える。このまま、夜通し山中に居れば、おそらく低体温症になってしまう。ひと月後なら死んでしまうかもしれん。

 

 「一体、どうしてこの時間まで、こんな山の中に?」

 そう思ったが、ひとにはそれなりの事情がある。言いたくないこともあるだろうから、他人がその事情に踏み入れるのは避けるべきだ。

 話したくなれば、自分から話し出す。

 俺は娘の身の上には触れぬことにした。

 「スープを作ってあげよう。体を温めるにはそれが一番だ」

 娘が「すいません」と頭を下げる。

 

 厨房で料理を作りながら、さりげなく娘のことを見た。

 なんとなく、自分の娘に似ている。

 俺の娘は大学生の時に、「好きな人が出来た」と家を出て行ったが、それきり家に戻って来ない。娘がどこで何をしているのかも俺は知らない。

 そのうち、俺の女房が家を出て行った。

 女房は娘が高校生の時にPTAの役員をしていたが、その時に知り合った娘の同級生の父親と付き合うようになっていた。

 数年の後、相手が離婚したから決心がついたらしい。ある日突然、家を出て、数日後に離婚届が送られて来た。

 それからもう五年が経つ。

 

 改めて眺めると、この娘は俺の娘に似ているし、その母親、つまり俺の元の女房にも似たところがあった。

 きっと、家では我儘な娘なのだろうな。

 何か気に入らぬ出来事があり、それでぷいと家を出て来たのだろう。後先考えずに行動し、周りの者を振り回す。散々、人に心配をかけ、あえて心配させるための身勝手な振る舞いをする。

 きっと、「もしも」を考えぬ行動をしている。

 

 「ねえ。今日は登山者名簿に記録して来たの?書いて来ないと、山で遭難した時に誰も助けに来てくれないよ」

 「でも、そんなの、どこにあるか分からなかったもの」

 口調が娘そっくりだ。

 「家の人には、ここに来るって言って来たかい?」

 「ええ?もう大人なんだし、どこに行くかなんて、いちいち言わないですよ」

 やっぱりな。

 今頃、この娘の家では、親たちが「うちの子はどこに行ったのか」と騒動していることだろう。たぶん、この娘が小さい頃から、こんなことを繰り返して来たんだな。

 家出をしては、あちこちに迷惑を掛ける。

 言い訳は「親が自分を見てくれなかった」から、だ。

 腹が立つなあ。

 俺の娘の生意気な顔が目に浮かぶ。

 

 「まだ寒いかい?暖炉もあるから、そっちに火を入れてあげよう」

 俺はそう言うと、暖炉に火を熾した。

 ここまで薪を運び上げるのは大変なのだが、俺は炎を眺めたり、木の燻る臭いを嗅ぐのが好きだった。

 追加の薪を暖炉にくべ、俺はその娘に伝えた。

 「こっちで火に当たると良いよ。すぐにスープも出来るから」

 娘が応じ、暖炉の前の椅子に移動した。

 俺は娘が椅子に深々と腰かけるのを確認すると、暖炉から長く重い鉄の火箸を取って、振り返りざまに、火箸で娘の頭を叩き割った。

 娘はびくんと体を硬直させたが、一瞬後には脳天から天井に届きそうになるほど血を噴出させた。

 

 「まったく。身勝手なことがばかリやりやがって。しかも床をこんなに汚してるじゃないか」

 俺は舌打ちをし、納戸の方に向かった。

 納戸には、ビニールシートがあり掃除用具も入っている。

 俺はひとまずシートを持ち出し、床に敷いて、娘の体をその上に横たえた。

 娘はまだぴくぴくと体を震わせていたが、なあに、もう心臓は止まっている。単純に体の組織が反応しているだけだ。

 「そこは経験者の俺にはよく分かる」

 

 ここではっと気づく。

 「俺は前にもこんな風に女の子を殺しているよな」

 すっかり忘れていた。

 だが、俺が管理人を務めた複数の貸別荘の床下に、今も娘たちが眠っている。

 娘と一緒に来た若い男も幾人か眠っている。

 俺の実の女房や娘も、現実には俺が殺していたのかもしれんが、その記憶がまったくない。

 そもそも、今に至るまで、「誰かを殺した」という記憶が塵ほども残っていなかったのだ。

 

 ひとの記憶は都合よく出来ている。

 自分に都合の悪い出来事や忘れたい思い出については、記憶の引き出しに鍵がかかり、自分でも取り出せなくなってしまうのだ。

 

 ここで俺は顔を上げて、窓の外を見た。

 窓には、たぶん俺に殺されたであろう、女たちの顔が鈴なりに連なっていた。

 はい、どんとはれ。

 

 山小屋の主人が、登山客の女性を殺してしまった事件があったのだが、これはその時に記した話だ。書き殴りなので、不首尾があるかもしれない。