◎怪談 第九話 池の畔に立つ女
怪談は「夢の話」や体験談を基に、実際にあった(みたいな)怖い話に再構成するものです。
これは二十年前に実際に体験したことだ。
私は古貨幣の鋳造技法について調べていたのだが、たまたま鋳銭地近くの旧家ゆかりの人と知り合いになった。
その人の取り計らいで、私はその旧家の中を見せて貰えることになったのだ
その町には、大地主だった家が二軒あり、そのうちの一軒の家が目的の旧家だった。
銭の密造には、かなりの投資が必要で、必ず金持ちが関わっている。その家の文書類を検めると、何らかの記述が残っているかもしれない。
車で七時間かけてその町に行き、目当ての旧家の向かいの家に着いた。
既にその旧家には、本来の家の者が常住しておらず、時々訪れるだけになっているようだ。よって、その家の管理を向かいの人が任されているとのことだった。
対応してくれたのが四十半ばくらいの女性だ。
これが見るからに朗らかな女性だったが、その家の子どもたちも活発で、二三人が家の中でわあわあと騒いでいた。
「ではご案内しますね」
歩いて道路を渡る。
その家の敷地はかなり広く、一辺が五十㍍くらいある。その外側にある農地は近所の農家に貸しているのだろう。作物が植えてあった。
管理人の女性の説明では、その旧家は百六十年くらい前に建てられたものなそうだ。
この県より「重要文化財に指定したい」との申し出を受けているそうだが、もし指定されると、改築などが出来なくなってしまう。このため、当主が断って来たとのことだ。
現在の当主は医師なのだが、隣県に住んでいるから、たまにしかここに戻ることはない。
玄関に入ると、さすがに広い。
板間に上がると、そこは客が旅支度を解くための部屋だった。
右手に向かうと、畳敷の部屋が幾つも連なっている。
「この二番目の部屋の敷居に頭を載せて昼寝をすると、座敷童が現れるという話があります」
「え。本当ですか」
きちんと段取りがあるのなら、その通りにすれば、「座敷童に会える」ということだ。
「幸運の神さまだから、是非とも会ってみたいもんですね。はは」
もちろん、冗談だ。
俺は昔、これほどではないが古い、母の実家で、「いない筈の子ども」に会った。
だが、あれはどう見ても、幼くして亡くなった子どもの幽霊で、神さまではない。
この家はさすがこの町に二軒しかない「旦那さま」の屋敷で、長い廊下を歩き見て回ったが、十五部屋目くらいから数えるのを止めた。使用人が暮らしていた小部屋も幾つかあり、納戸と区別がつかない。
二階もあったが、昔の家にありがちな養蚕部屋になっていた。階段が細く急で、上がってみると大広間になっている。ここで蚕を育てたわけだ。
二階から降りると、そこには内蔵があった。
家の中に蔵を作るのは、よほどの金持ちだったということだ。
だが、管理人の女性があっさりとその蔵を開けてくれた。
「何回か竈を返しているので、さしたるものはありません」
調度類が少々あるだけだ。
蔵の隣には、広めの納戸があったのだが、この部屋には、むしろいろんな物が押し込められていた。刀だけで二十五本以上、大火鉢に差してある。
「重要文化財級の刀があったそうですが、次郎ちゃんが持ち出してしまって・・・」
「次郎ちゃんは二代前の当主の弟で、戦後まもなく、あれこれと持ち出しては遊興に充てたらしいです。今でも皆が『次郎ちゃん』と呼ぶので、そんな放蕩息子でも、案外嫌われていなかったんだろうと思います」
足を止めて見入ったら、どれほど時間が掛かるか分からなかったので、最初に家の内外をひと回りして、それからこれという場所を再度見せて貰うことにした。
家の外には外蔵が二つある。
片方の蔵に入れて貰ったが、古文書が山のように積まれていた。
「この量では、置き場所を整理するだけで四五日は掛かる」
とりあえず、外に出る。
農機具小屋などは既に取り壊してしまったらしい。建物は無いが、それがあった跡だけは残っていた。
その奥にある別棟は今風の建物だが、これは持ち主家族が戻って来た時に寝泊まりするためのものらしい。
こんな建物群の中央には、大きな池があった。正確には元は池だった「水溜り」で、ぬかるんだ土地に菖蒲のような植物が密生していた。
「錦鯉を鑑賞するための池ではなさそうだ。釣りが出来るくらい広かったのだな。ま、今では見る影もないわけだが」
俺はさっきの古文書のことを考えていたが、庭にプレハブで作業小屋を建て、そこに資料を移して点検する規模の量だった。
「ちょっと無理だな」
どうやら諦めるしかないらしい。
ここで、隣家から子供が走って来た。
「お母さん。お客さんだよ」
「あ。工事の人ね。すぐに行くから」
そして俺の方を向いた。
「ちょっと建設屋さんと話をしますので、しばらくご自由に見てらして下さい。何かあれば、また後で」
女性はそう言い残して、俺の許を去った。
俺はその家の前に一人残されたが、考えていたよりも大事だったので、調べ物の方は止めることにした。
「それなら、あのナントカの間で、敷居に頭を載せて横になってみることだ。座敷童に会えるかもしれん」
そこで、もう一度玄関から家に入り、右手の二番目の部屋に行った。
管理人の女性が時々、掃除をしているのか、畳などは汚れていなかった。塵埃も無い。
俺はそこで、敷居に頭がかかるような体勢で横になった。
玄関が開け放たれていたため、初秋の風が吹き込んで来る。
七時間かけて運転をし、この町に着いてすぐにここに来たから、俺はやはり疲れていたらしい。
爽やかな風に吹かれているうちに、俺はつい眠りに落ちてしまった。
深い眠りの奥に沈んでいると、近くで笑い声が聞こえた。
「くくくく」
子どもの声だ。
「ここで寝ちゃダメだよ。お化けに連れて行かれるよ」
これが襖の陰から聞こえた。だが寝入ったばかりで、頭がぼんやりしている。
すると、その子どもは私の傍らに来て、右腕の袖を引っ張った。
「ここで寝ちゃダメだったら。お化けに連れて行かれるから」
さすがにこれで俺は目を覚ました。
両眼を開けると、玄関から走り去る子どもの背中が見えた。
「ああ。あれは管理人さんの家の子どもたちだな」
いわくのある場所で昼寝をしていた時に、子どもの声が聞こえたから、俺はまた早合点しそうになったのだが、しかし、割合、冷静に判断出来た。
「ああ、よく寝た。と言っても十分か十五分だろうな」
起き上がって、窓の外を見る。
すると、外の池の辺に人影があった。
葦の葉陰に隠れているが、着物を着た女性だった。
一枚着だし、白地に紫の藤の花をあしらった柄だから、病人なのだろう。
おそらくここの家の誰かが、当地滞在用の棟にいたということだ。
すると、その女性が俺の方を見た。
俺は単なる見物人で闖入者だ。
「家の人なら挨拶をしとかないとな」
もしかして、いずれ古文書を検めさせて貰えるかもしれん。
俺はすぐに起き上がり、庭に出た。
池の辺には、やはり着物の女性がいた。年の頃は二十五六歳だ。
俺はその女性に会釈をし、傍に近寄った。
「こんにちは。私は大学の研究者ですが、今日はこちらさまの家を見学させて頂いています」
女性は答えず、小さく頷いた。
「失礼ですが、御病気なのですか。こちらさまには今、住んでおられる方がいないと伺いましたので、中を拝見していました。怪しい者ではありません。隣の管理人さまにも案内して頂いています」
すると、女性が初めて口を開く。
「私は長く患っていましたので、家の外のことは何も分からないのです。庭に出るのも、随分と久しぶりです」
「そうでしたか。それはご迷惑をお掛けしているかもしれませんね。すいません」
若い女性だから、病の床に就いており、化粧もしない顔を見られるのが嫌なのだろう。
私から顔を背けていた。
「今年の夏はとても暑くて参りました。でも、ようやく涼しくなってくれたので、こうやって外に出られるようになったのです」
「どうか無理はなさらないでくださいね。私のような邪魔者はもう消えますから」
挨拶もそこそこに、俺はその場を離れる。
家の玄関まで戻った時に、右手の先にある池の方に眼を遣ると、あの女性はやはり同じ場所に立っていた。
そこで足音が聞こえ、表門の方から管理人の女性が入って来る。
「どうもお待たせしました」
俺はつい今しがた出会った女性のことについて話すことにした。
「今、池のところで、若い女性に会いました。病気をされている方が居られるのですね」
すると管理人の女性が、「え」と訊き返す。
「それ。どんなひとでしたか?」
「病院で使うような寝巻のような着物を着ていました。白地に紫の藤の柄です」
管理人の女性は、かなり驚いた表情で俺を見た。
「それ。みさきちゃんです。どこにいましたか?」
「池の辺に」
すると、管理人の女性はすぐに池の方に進んで行く。女性に釣られ、俺も後ろに付き従った。
だが、池の周りには人気が無くなっていた。
その女性があまりにも真剣な表情なので、俺は思わず声を掛けた。
「さっきは確かにいたんですよ。着物の女性が」
すると、管理人は俺の表情を確かめつつ、ぽつりぽつりと話し始めた。
「お客さん。貴方は幽霊のことを信じますか?」
俺は少しの間沈黙したが、漸くそれに答えた。
「信じます。と言うより、頻繁に見聞きするので悩まされているほどです」
「ああ良かった。それならお話出来ます」
これで堰を切ったように、管理人が話し始めた。
俺の会ったあの着物の女性は、目の前の管理人女性の幼馴染の「みさき」という娘だった。幼い頃から病弱で、いつも臥せっていたが、二十台の半ばで亡くなってしまった。
ところが、時々、この家でその「みさき」という娘の姿を見た者がいる。
管理人は「いつかみさきちゃんに会いたい」と思っていたのに、これまで会ったことが無かったのだ。
「そうだったのですか。それは残念なことでした」
最初から、何となくそんな気がしていた。住む者のない家で人影を見たなら、それは泥棒か幽霊と相場が決まっている。
悲しそうな管理人の姿に、俺は少し話題を替えることにした。
「私も昔から幽霊を見ますので、あんまり幽霊を怖いと思ったことがありません。実家が商売をしており、お盆などには夜中まで働きますから、深夜の十二時過ぎに独りで墓参りに行ったりしていました。これは小学生の頃からの話です」
「私も似たようなものです。でも、何故かみさきちゃんは私の前には現れてくれないのです。それが悔しくて」
この管理人は、幽霊でもいいから「幼馴染と会いたい」と願っていたらしい。
「先ほど、私はあの座敷童が出るという部屋で、敷居に頭を載せて横になってみました。残念ながら、子どもには会えませんでした。つい寝入ってしまったのですが、管理人さんのお子さんが起こしてくれたので、座敷童に連れて行かれずに済みました。お子さんの話では、座敷童は幸運の神さまとは限らぬようですね」
すると、管理人の女性はもう一度表情を変えた。
「子どもに起こされたのですか?」
「ええ。座敷童ではなく、普通のお子さんでしたよ」
すると、管理人の女性はいくらか申し訳なさそうな口ぶりでこう答えた。
「私の子らは盛岡の高校に通っているのですが、今は高校の前の家に下宿しています。この町は過疎化が進んでいるので、小学生以下の子どもはほとんどいないのです」
それを聞いて、俺は息が止まった。
「では、先ほど私の袖を引っ張ったのは・・・」
管理人の女性は、これに真顔のまま頷いた。
はい、どんとはれ。
さしたる恐怖場面が無く、淡々と進むのは、これがほぼ実話だからだ。
岩手のK町には、幕末に八戸藩の隠し炉が存在した。この町の豪農であったM家を私が訪れたのは事実で、そこは江戸時代から百数十年間続く旧家だった。
玄関を上がって右手には、「座敷童が出るという言い伝えの部屋」がある。
南側の襖の「敷居に頭を載せて横になると、子どもが現れる」と言う話があるのも事実だ。なお、その時には、私はそこで寝ていないので、子どもには会っていない。
だが、窓の外には元は池だった湿地があり、その脇に着物の女性が立っていた。
それをそこの管理人に話すと、「その女性には憶えがある」というので、二人で元池の辺に行き、お焼香をした。
この話が知られるようになり、私は色んな家の法事に呼ばれるようになった。
「あの世はどんなところなのか」という話を求められるのだが、こういう話は「御法話」として僧侶がすべき話だと思う。
注記)一時の書き殴りであり、推敲や校正をしていません。