◎古貨幣迷宮事件簿 「文久貨泉の概略」
「文久貨泉」は、仙台藩の文久山で鋳造されたとされる地方鉄銭である。
百文(当百)と五十文の二種があるが、実際には流通しなかった。
現在まで残っている鉄銭は、文久山にて叺(かます)に入った状態で発見された。内容物はいずれも鉄銭で、「殆どが割れていた」と伝え聞く(記憶は朧気だ)。
銅銭はこの流れで発見されたものではなく、鉄銭の仕様に合致するものは少ないから、直接に鉄銭の母銭として使用されたものではないようだ。
1)文久山の立地
興田川支流の鳥海川に沿って、渋民から田原峠を越え、江刺市田原に向かうと、文久山鉄山跡は丑石集落と田原峠の中間の鳥海川西方の畑の中に残っているが、現在ではほとんどそれと分からない状態だ。
2)鉄山の開炉
この鉄山は仙台藩が開設した洋式高炉である。
芦東山の子孫芦文十郎が高炉建設計画を立案した。
開設の認可は1860(万延元)年で、創業は1861(文久元)年であり、日本で11番目の航路となる。なお、最初が釜石の橋野高炉で1957(安政五)年開設であるから、文久山はそれから四年後の開炉であった。
3)鉄山の稼働と閉山
文久山では、江刺市の赤金鉱山から鉄鉱石を運び、年間八万五千貫の銑鉄を生産した。製品は鍬などの農具に加工されたが、大部分は岩谷堂から船で石巻銭座に運ばれて鉄銭に加工された。
文久山鉄山を稼働しても銑鉄が不足したため、この生産不足を補うため、仙台藩は興田川上流に1863(文久三)年に経津畑鉄山を開設した。
この鉄山では十二万貫を生産した。赤金鉱山は越路峠を越えた先にあったので、地の利があった。
文久山、経津畑鉄山は、1882(明治十五)年頃に閉山となった。
備考)一関市に芦東山記念館があり、古貨幣の資料が幾らかある。二十年以上前に訪れたが、さすがに昔なので詳細は失念した。
ネットに「文久貨泉」の銅銭が割と沢山出るが、ほぼ額用の後作絵銭であり、鉄銭にまったく合わない。へりを指で摘まんで持ってみれば、一秒で「違う」と分かる。
作りが違い、連続性を欠く。
まずは、本物の鉄銭を見て、あるいは「直接触って」地金と製作を確認することだ。
鉄銭の評価が十万に近い。ネットの「母銭」が五万なら、「いかにもそれなり」ということ。
仮に文久山の高炉近くの畑でこの品を探し出せたら、まさに「お宝」だ。割れた品でも良い。史料的な意味がある。
注記)記憶のみで記して居り、一発殴り書きで推敲や校正をしません。不首尾は多々あると思いますが、あくまで日記ということで了解願います。