日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎日常のひとコマ(616)

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令和三年十一月七日撮影

◎日常のひとコマ(616)

 先日、夢見が悪かった時に「出て行け」と追い出してから、身の回りが静かになった。

 煩いくらいだったのに、ほとんど気にならない。

 そこで、お寺には行くが、神社には寄らずにいた。ま、いまだ気にしてはいられぬ状態だ。

 ただ、今は菊の季節だから、菊花展が開かれている。

 そこで、紅葉見物の帰路に、いつもの神社に立ち寄ることにした。 

 

 ひと回りしたが、別段、何も異常を感じない。

 駐車場で画像をチェックしたが、家人に関係するものが少々で、他は何もなかった。

 最初は二人だけでいたので、家人を撮影したが、老人と孫らしきシルエットが窓に映っただけ。

 七五三の季節なので、親子連れに釣られて出て来ることはある。

 いずれか片方が本物で、もう片方がその者に作られたイメージだ。

 普通は老人が本体で、孫のことをずっと案じているからそれがかたちになる。

 割と古い時代の者だと思う。

 自分に関わって来ぬ者は、雑踏の中ですれ違う通行人と同じ。気にする必要はない。

 そもそも、この程度なら「気のせい」と言っても良い。

 普段目にする「人影」の鮮明さは、せいぜいこれくらいに留まる。

 

 家人は小学校勤務だが、学校から子ども(の幽霊)を連れ帰ったようだ。

 引き受けるのは私になるが、当人は分かっても第三者の眼には見えぬので、ここでは省略する。

 先日、稲荷神社の近くで「蜘蛛の巣(の糸)がふわっと頭から肩にかかった気分」を味わったが、あれが「幽霊が寄り付く」時の実感のようだ。

 そうなると、あの感覚を忘れずにいれば、目や耳に頼らずとも、「寄り付き」を把握することが出来るようになると思う。

 「拾う」のは他の者だが、「引き受ける」のは私。何だか割に合わぬ気がする。

 ま、それでも、これが日常だ。