日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎今の気分は「▢然自▢」

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◎今の気分は然自

 通院先の病院では、エレベーターに乗ると、時々、モニターに「四文字熟語クイズ」が現れる。

 この日は、治療の直後にエレベーターに乗り、1階のトイレに向かった。

 五時間も横になったままだから、さすがに催して来るわけだが、病棟にはトイレがひとつしかなく、塞がっていることが多い。そこでパジャマのまま一階まで直行し、障害者用トイレに入る。

 そして、この日の問題はこれだった。

 「▢然自▢」 

 即座に「なあんだ。俺のことかよ」と呟く。

 これでは当て嵌まる候補の選択肢はほぼ無きに等しい。

 「俺はさしたる苦労をしたことが無く、ひゃらひゃらと世の中を渡って来たから、今はコロナの直撃を受け、まさに茫然自失だよな」

 

 すると、二階でエレベーターが止まり、三人が入って来た。患者ではなく一般人で、壮年の男(何かの業者)が一人と、他に高齢女性と中年男性の二人連れだ。

 業者が二人に「ではご自宅の方に向かいますので」ドータラコータラ・・・。すると客の男が「住所は分かりますか?」のやり取りだ。

 そこでピンと来た。

 今朝方、この二人の身内の誰かが亡くなったのだ。そこで葬儀屋を呼び、家に遺体を運ぶ段取りをしているわけだ。

 ひとが亡くなるのは、概ね夜半から朝方のことが多い。

 

 だが、家族の様子を見ると、憔悴している感じはない。どことなくホッとしている感がある。

 これも病院ではよく見る。

 「女性の配偶者だとすると、九十くらい。長患いをしており、前々から危ない状態だったから、心の準備が出来ていたということだ」

 病院では、入院患者のうち「生命の危機が差し迫った」患者は概ね二階にいる。そこは救命救急室のすぐ近くだからだ。救命救急室は一階(か二階)で外からの搬入がしやすい環境に置かれる。

 だが、そこには外来患者も来る。私のように半入院生活を送っている者は、ひとの生き死にの場面に時々遭遇する。

 病院では毎日誰かが亡くなっているから、こういうのはすぐ分かる。

 検査室の隣が救命室なので、長椅子で待っている時に家族に助言することも多い。オロオロして、何も考えられぬ家族も沢山いるからだ。

 

 この時、その二人は割と落ち着いていた。

 実際、家族に「生きていて欲しい」のは山々でも、闘病末期になり苦痛に泣き叫ぶ姿を見ると、家族は次第に「どうか苦しまぬように」と願うようになる。

 私のいる病棟では、意識朦朧となった患者が「断末魔の苦しみに泣き叫ぶ」のを終日聞かされることもある。

 多臓器不全症の最後には、全身の痛みが止まなくなる。風が吹いても、その風の当たる箇所がぎりぎりと痛むと思う。痛風の全身版だ。

 つくづく「モルヒネを与えて苦痛を軽減してやればいいのに」と思う。普通の鎮痛剤はもう効かず、医師は延命のための対象療法だけするが、それでは拷問と同じだ。

 最期が近づいているのだから、延命ではなく苦痛を軽減する方が重要だ。

 朝から夕方まで、「苦しい」「もう死にたい」と泣き叫んでいるのに、ただ見ているだけ。

 隣の患者だって、自身の病状を抱えているのに加え、耳元で終日叫ばれては堪らない。  

 

 病棟に戻ると、午後の患者がベッドごと運ばれて来るところだった。

 この患者は顔見知りで、更衣室でよく顔を合わせた男性だが、入院病棟に移っていたらしい。つい数週間前からベッドにいないと思ったが、そういうわけだった。

 顔を見ると、既に死相のようなものが出ている。

 おまけに患者の顔の傍に「女」が頬を摺り寄せているように感じる。今回、はっきりとした目視ではないが、歴然と「気配」「匂い」のようなものがある。

 ま、これはあくまで感覚のようなものだが、反射的に「怖ろしい」と思った。

 つい数週前には普通に歩いていたのに、今は寝たきりで紫色の顔をしている。 

 死ぬこと自体は怖ろしいことではないが、階段から転げ落ちるようにあの世に向かうその急激な変化が怖ろしい。

 

 男性患者の場合、ここから持ち直すケースはない。

 でも、女性の方は、どんなにヤバそうな事態でも、戻って来る人が割合いる。

 顔色がそれこそ土色に変わっていた患者でも、ひと月後に血色が良くなって戻ることもある。

 男と女は、そもそも「つくりが違う」のだと思い知る瞬間だ。

 女性は生命力の根本が違う。

 

 ところで、あの患者の傍にいる「女」の気配は、紛れもなく「お迎え」だと思う。自分へのそれなら、警告を与え、寄せ付けぬようにする手立てはあるのだが、他人のそれへの対処の仕方がよく分からない。悪縁を祓うことは可能だが、老病死は不可避なわけだ。

 死の臭いがすれば、あの世の住人が寄って来る。本当は迎えに来るのではなく、死の臭いに引き寄せられているだけなのだが、ひとまず「お迎え」とした方が通りが良いからその言葉を使う。

 やや重くなったが、これが目の前の現実だ。

 私だって、割と近くまでお迎えが来ている状態には変わりない。がたっとくればほぼひと月だ。

 少し質の良いセージを注文して置こうかと思う。匂いがキツくて溜まらなくなったら、もうあの世の方が近くなっている。

 ま、死ぬことは終わりではなく、その先があることは分かっているから、そちらの対処も打って置く必要がある。

 生きている者を「親族や縁者ごとあの世に引きずり込む」立場にはなるべくならなりたくない。そんな理由からだ。