◎カーナビでぐるぐる、その他
先日、看護師と隣のベッドの患者が話をしているのを間近で聞いた。
看護師のチエコさんによると「カーナビで墓地に案内された」ことがあるらしい。
傍で聞いていて「俺と同じ経験をしている」と思ったが、よく聞くと、「音声ナビ」の案内だったとのことだ。それなら、音声認識はまだ開発途上だから、単純な認識エラーかも知れん。
そう思い黙っていた。
私はカーナビに理不尽な場所に導かれたことが幾度かある。
極めつけは、道の無い場所に案内されたケースだ。
何時の間にか山道に分け入らされ、草が車の左右にかかるような細道に入った。
いざ入ってしまうと方向転換するスペースがない。
いずれ広い道に出るだろうとそのまま進むと、いよいよ道の先が細くなり進めなくなった。「もう行けない」と思った途端にナビがパタッと消えた。
ナビ画面には、自分の車だけがマークされており、全画面が真っ暗だ。
そもそも公道が存在していない地域に入り込んでいたのだ。
「これは到底、誤作動などではない」
すぐに引き返すことにし、ひたすらバックで戻ったが、割と冷静だったので、崖から落ちずに済んだ。
ああいうのは、やはり「何かの力」が働いていたと思う。
この時、異常事態にも関わらず、「割と冷静」だったのは、それより前にも同じ市内で似たようなことがあったのだ。
この市は東北地方のS市なのだが、高速道路を上京中に、突然、ナビが「降りて下さい」と指示した。
疲れていたし、食事を摂りたかったのでナビに従い、市内に向かった。
ところが、飲食店は既に営業を終えており、入れそうな店が見当たらない。
それなら高速のサービスエリアしかないと思い直し、再び高速に戻るべくカーナビを設定し直した。
すると、車は同じルートで市内をぐるぐる回る。
この市の地理には詳しくないわけだが、さすがに三度目くらいで「同じところを回っている」と気付いた。
設定がおかしかったかと「一般道で東京方面」と直し幹線道路に出る道を探した。
すると、今度はどんどん奥の方に進んで行き、住宅街、田園地帯、山道に向かって行く。
気が付いたら、目の前に小さな墓地が現れ、そこが行き止まりだった。
この経験があり、「もしかすると同じことが起きるかも」という予感があったので、落ち着いていられたのだ。
そういう時に最も不味い対応は、驚き慌てることで、咄嗟にその場を逃れようと急発進をしたりすると、道を踏み外し崖から落ちたりする。
この時はナビを止め、来た道を順次戻ることで住宅地に入り、そこからは道路標示を頼りに東京方面を目指した。
二度も同じような経験をしたので、長らくS市を敬遠していた時期がある。
だが、ある時、「断りを入れる」ことを思い付いた。
幹線道路を南下するには、必ずS市の近くを通る。遠回りすれば二時間は余計にかかるから、避けてはいられない。
そこでS市に差し掛かった時に、「申し訳ありませんが、家に帰りますので通らせてください。通り過ぎるだけで、他意はありませんし、すぐに出ます」と声に出して言うことにした。すると、割合、スムーズに通過出来た。
震災後、長らく都北各地の線量を調べていた期間があるが、S市にも幾度か立ち寄った。
その時も、「お願いします」と伝えると、異変は何も起きなかった。
私が時々、「あの世の者には敬意を示せ」と記すのは、これに類する実体験がかなり多いからだ。
まったく知らぬ地に踏み込んだ際にはナビに頼らざるを得ない。しかし、そこでナビ自体が正しい指示をしてくれぬ時には本当に困ってしまう。
そういう時には道路標識の有難さをつくづく感じる。
電子機器だから些細な信号エラーで誤作動を起こすことはある。だが、その誤作動が周到に組み立てられていると思わずに居られぬケースもある。
一時話題になったことだが、東北地方のある別荘地で、人のいない別荘から緊急連絡の電話が警察(か消防署)に入ったことがあった。
人のいない別荘の電話から「誰かが電話を掛けた」が、担当者が出ても何も言わない。
そこで逆探知の上、警察が急行したのだが、やはり誰もいなかった。
まさにホラー話だ。
そのことについて、「専門家」は「電話線に立木の枝が触れ、そのことで疑似信号が発信されたのではないか」と説明した。
私はそういうのは「あり得ない」と思う。
仮に木の枝が電話線に触れ、それが信号と認識されるなら、その電話信号はトーン回線だ。トーン回線の発信信号は、データ長が割と長い。ここはダイヤル電話を思い出せばよいのだが、指を入れて離してから間隔がある。
「1」ふたつを繰り返した後、さらに「110」なら「0」、「119」なら「9」を枝が発信することは、万にひとつもない。
こういう針の穴を通すような説明など、むしろ科学とはかけ離れている姿勢だと思う。
実証可能な仮説でなければ「説明した」ことにはならないのだから、あれは「原因はよく分からない」と言わねばならなかった。
総てにおいて合理的な説明がつくわけではないのだから、分からない時には「分からない」と認めるのが科学的なスタンスだ。
その別荘はごく普通の一軒家で、特に曰くがあったわけでもない。
過去に同じことが起きたわけでもない。
仮に異変が人知の及ばぬ者の仕業だったとしても、人が理解できる範囲を超えている。
しかし、あの世的な異変は、人を選び、時を選ぶし、状況を選ぶ。
同じことが別の人に起きるわけではない。
私はS市で重ねて異変に遭遇したわけだが、そういうこととはまったく関わりなく、普通に住民がおり、訪れる客がいる。起きぬ人には一切、何も起きぬのだ。
これと同じような状況が存在するのは、「死期の迫った者には、あの世の住人の姿が見える」という現象だ。
かつて夏目漱石は、その晩年において、「そこに居ない筈の者」の姿を見て、物を投げつけたという。それと同様に、病気などで死期の迫った者は「この世のものならぬ存在」が来訪するのを感じ、粗暴な振る舞いを示すことがある。
殆どの者は「死期が迫り、妄想を見るようになった」、すなわち心神耗弱のせいだと見なすだろう。
恐らくそういう要因もある。だが、「上手く説明のつかぬ事態」だと認められるケ-スも実際に起きる。
本人にとっては、それが妄想だろうが、現実の「あの世の住人」だろうが、線引きをする意味はない。いずれであっても、「目の前の、動かしがたい現実」として姿を現わすからだ。それが実際のものかどうかに興味を持つのは、当事者ではない者の好事家的関心に過ぎない。
これまで幾度も記して来たが、私は何年か前に私を連れ去ろうとする「あの世の住人」に会った。病院に入院中で、夕食の後ベッドに座っている時に、その者たちが現れた。
その二人は普通に病室の入り口から入って来たのだが、ひと目で「この世の者ではない」と分かった。後で気付いたことだが、その時「この世の者ではない」と悟ったのは、周囲の景色が歪んで見えたことによる。
この世で語られるどんな怪談の類よりも、あの二人の姿は怖ろしかった。
いわゆる「お迎え」に近い存在だから尚更だ。
以後、私と似た体験をした人の話を集めているが、「お迎え」は一度だけ猶予して貰えることがあるようだ。私自身もそう。
だが、殆どの者が数か月から長くとも一年後には亡くなっている。
私はその後も生きているが、極めてレアなケースだろうと思う。
何故生きていられたのか。
その理由のひとつは、「細心細意、あの世の動きを注視して予防措置を講じている」からだと思う。
いつも記す通り、私は一年に百五十日(回)以上、神社やお寺を参詣参拝する。
それは自身の状況を知るためだ。精神状態を見詰め、今の自分自身が果たして私本来の自分なのかを確かめる。これが基本だ。
そのせいで、この世ならぬ者が近づけば、これを祓い近付けなくする手立てを講じている。
ただ、何事にも限界があるようで、最近は万事について「衰え」を感じるようになった。
徐々に「その時」が近づいているということだ。
お断り)体調的に十分か二十分の時間しかキーを叩けぬので、総ての記事が書き殴りとなっている。推敲や校正が出来ぬので、誤変換や誤記が多々生じると思う。