日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎耳に届かぬ音

に届かぬ音

 月曜に駅前でこの世の者ならぬ「女」に会ったのだが、最初は目視出来なかったのに「疑いなくそこにいる」という実感があった。

 後になり、何故そう確信したかを思い出すと、「音」が聞こえていたことがその理由だ。

 「音」と言っても耳には聞こえぬ音、すなわち人間の耳では聞き分けられぬ周波数の音だ。

 閉店後の床屋の前では、「ごおおおお」とも「ブーーン」ともつかぬ重い音が響いていたと思う。

 どうやら可視域と同様に、可聴域も幾らか通常より広いようだ。

 

 あそこまで強力な者だと、さすがに迫力が半端ない。

 ホラー映画や、あるいはネットに溢れる怪談の類を見聞きして、肝の縮み上がる思いをしたことがあるだろうが、現実に眼にするそれは映画や怪談の重さの比ではない。

 ただ同時進行的に「今何が起きているのか」がよく分からなかったりする。

 五分十分後になり、「さっきのはこういうことだ」と思い当たる。

 後で直接目視したが、他の人の中に「普通に立っている」ので、こっちはあまり衝撃が無い。「あれ。おかしいな」と思う程度。 

 

 今後も私は死線の傍に立っているから、直接見たり聞いたりする機会が増えると思う。

 何が怖ろしいと言って、何か得体の知れぬ者の「意思」を感じることこそ怖ろしいことはない。

 何年か前に、F県の某地で、カーナビに導かれ山中に迷い込んだことがあったが、車一台がぎりぎりの細道に入り込んだ瞬間、カーナビから案内経路がパッと消えたことがある。

 ナビ上の当方の車の周囲五キロ四方は真っ暗だ。

 誰か分からぬ者の意思を感じた時のそら怖ろしさは筆舌に尽くし難い。

 

 それでも、場数を踏んでいるうちに、人は何事にも慣れて行く。気色悪くは思うが、さほど動揺しなくなった。

 

追記)駅前ロータリ-に立っていたのは、二年前に現れたこの「女」によく似ている。ただ、背丈は常人のサイズだった。

 この時の「女」は、いつものように「窓ガラスに映っている」のではなく、参拝客女性の傍に実際に立っていた。顔が鮮明に出ている。

 これくらい強力な者になると、直接目視も出来る。

 見えにくい方では、最初の画像の左側にも「女」がいると思う。これはごく薄らとした影だけだ。

 光は原則として真っ直ぐに進む筈だが、微妙に進行方向が変わるので、そこにいる「何か」が影響していると分かる。

 

令和二年二月十一日撮影。人の耳元で囁く「女」の幽霊。