日刊早坂ノボル新聞

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◎冝保さんの最期

冝保さんの最期

 霊媒として名高い冝保愛子さんは胃がんで亡くなったが、亡くなる当月まで仕事をしていた。

 「癌で死ぬ」のはそんなに悪いことではないと思うのは、ぎりぎりまで立って歩いていることだ。

 歩けなくなるのは、一週間くらい前からで、家族らに負担を掛けずに済む。

 病気によっては、何日も何か月も泣き叫んで死んでゆく者もいる。

 

 冝保さんの「最後のケースワーク」は、あの悪名高き「かもめ荘」だ。近くにある灯台自死の名所で、浮かばれぬ幽霊たちが集まる場所になっている。

 冝保さんはその建物の前に行くと、「これはダメだ。私には無理」と言って、探索を取りやめた。

 それだけ、そこに「溜っていた」ということ。

 ひと月もせず、冝保さんは亡くなったわけだが、このために「かもめ荘の障り」ではないかという噂が立った。

 だが、基本的に冝保さんは末期癌患者だった。

 何かの「触り」がなくとも、いずれは死ぬ。

 影響があったか無かったかと言われれば、もちろん、「ある」わけだが、死に間際なので幾らか背中を押される程度だったろう。

 霊媒や霊感占い師の末路は、「顧客に殺されるか、全身が腐って死ぬ」と言われている。

 

 ところで、これまでに三陸のとある食堂を訪れた時の話を幾度か書いたが、そこも元は展望レストランだった。寂れており、二階三階は営業しておらず一階だけ。

 中に入ると、すぐに一歳の息子がぐずり始め、身をよじって泣き叫んだ。

 どうしても止まらぬので、店の外、陸側の方に出ると、そこで泣き止む。泣き止んだのでまた店に入ると、まさに火の付いたように泣いた。

 そこで、妻子が食事をする間、私が息子を外であやし、妻と交替で今度は自分が食べた。

 目の前は全面ガラス張りで、海側の壁がすべてガラス窓になっている。

 既に夕方だったが、天気が悪くなって来ており、雷が鳴り始めた。時折、稲妻も走る。

 ついに建物の傍で稲光が光り、窓全面が明るく光ったのだが、その時、一瞬、窓ガラスに数十の顔が浮かんで見えた。

 そこで「息子が怖れたのはこれだったのだな」と知り、急いで勘定を済ませ、その地を離れることにした。

 だが、店を出る瞬間、私には声が聞こえた。

 「これはけして気のせいではないぞよ。しるしを見せるからな」

 大慌てでエンジンをかけ、発車すると、五十㍍も行かぬうちに、「しるし」の意味が分かった。

 対向車線に車が来たのだが、これがダンプカーだった。

 目の前にそのダンプが近づくと、どこからか大型犬が道に飛び出して、ダンプにはねられてしまった。

 危うく、こっちの車に犬が乗り上げそうになるくらいの勢いだ。

 

 こういう時に必要なのは、平常心を保つことだ。

 悪縁は専ら「心に働き掛ける」ので、ここで動転してハンドル操作を誤ると大事故に至る。

 この手の経験は幾らかあったので、動じることなく、ゆっくりとハンドルを切って犬を迂回して前に進んだ。

 

 悪縁が最初に目を付けるのは、「自分を見てそれと気付く者」だ。だから、最初にいわゆる霊感の強い人、第六感の働く人のところに寄り集まる。

 逆に、あまり影響を貰わず、悪縁に無視される人もいる。こういう人は割と平気で、色んな所を出入りできる。

 私は至って普通人で、普通の感覚しか持たぬが、その代わり様々な経験がある。

 知人には「俺が何も言わずその場を離れたら、それは『ヤバイ』ってことだから」と冗談を言う。置き去りなのだが、最初に捕まるのは私なので、これは致し方ない。

 実際、半年前に「足を踏み入れてはならぬ場所」にうっかり入ってしまったがために、今も障りに苦しんでいる。ま、「三月末までに」死なずには済んだ。

 悪縁は人を選んで力を示す。起きぬ人にはさしたることが起きぬが、人によっては熾烈な障りを与える。

 あの世を甘く見たらダメだ。好奇心の対象としてはならない。

 

 冝保さんの霊視が「あたった」「外れた」ことで、本物偽物を議論する者がいるが、それは「お前の小理屈」だ。あの世はこの世のルールには従わない。

 仮に見てもいないことを総て正確に言い当てるとしたら、それは霊媒でも霊能者でもなく「神」の域だ。これまでで最高の霊媒は十九世紀の英国にいたが、現実との適合率は四十パーセントだった。そこで「四十しか当たらぬ」という者が出る訳だが、予備知識なしに四割を言い当てられるとしたら、怖ろしい程の的中率だと見る方が正しい。

 だが、そんなことはどうでも良い話だ。的中率などはそもそも好事家的な関心による。科学的思考の本質は「規則に従う」というもので、この世の規則とあの世のそれは違う。

 

 冝保さんは本物だった。何故なら本人が「霊感は想像で成り立っている」と言っていた。霊感は能力でも何でもなく想像だ。出発点が想像や推測であれば「当たった」「外れた」などあまり意味がない。

 「障りを避け、無用な苦痛を貰わぬように知見を活かす」姿勢が大切だ。

 

 数年前に、三陸のあの食堂の前を通ったが、まだ暖簾が掛かっていた。平気な人は平気だから、細々とだろうが営業が成り立つらしい。店の海側は切り立った崖だが、少し離れた地点にいわくが幾つかあるとのこと。今生に絶望した者が岬から飛び降りる。