日刊早坂ノボル新聞

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◎背後にいる人影 (令和四年五月二十三日の記録)

令和四年五月二十三日撮影

◎背後にいる人影 (令和四年五月二十三日の記録)

 この日は私の通院日ではなかったが、妻が「病院に行きたい」と言うので、連れて行った。

 整形外科(脚)など、命に係わる箇所ではないが、患部に強い痛みがあるそうだ。

 私の方はいまだ酸素缶を離せぬ状態で、少し動いただけで溺れてしまう(息苦しくなる)。

 そこで息が止まり掛けたら、その都度すぐに酸素吸入をすることにしている。

 妻の病院は二か所なので、いずれも飛び込みだったから、待ち時間がやたら長かった。

 私はその間ただ待っていただけだが、じっと座って酸素吸入していると、まさに「死に掛けの病人」の有り様なので、時々席を移動し、病院内を見て回った。

 最初の画像は、入り口の掲示板に貼ってあった子どもの絵だ。

 四歳児が描いたようだが、「子どもにはこんな風に見えるのか」と面白く思った。

 眼が四つ五つあるように見える。

 だが、よく見ると、看護師さんのほっぺが赤かったり、医師は額に鏡をつけていたりと、割と見えたままを描いたようだ。幼児なので手がまだよく動かぬだけだった。

 

 午後まで掛かり、ようやく帰宅。さすがにダンナ(私)の方も疲れた。

 すぐに仮眠を取ろうと思ったが、疲れ過ぎで、そうなると余計に息苦しいので、眠れない。

 そこで、就眠儀式として映画でも観ることにした。きっと途中で眠りに落ちる。

 だが、これで選んだのが返却日の近いホラー映画だ。

 ハンガリー映画の「遺体写真師」の話なのだが、まるでゴーゴリの小説のような展開だ。

 画面がやたら暗くて、居間の景色が画面に映ってしまう。

 何気なくその暗がりに眼を遣ったのだが・・・。

 

 「あれま。ぞろっと並んでら」

 私の背後には、幾つもの顔がある。居間中にひしめいているから、思わず郷里の「回し念仏」の後継を思い出した。

 さすがにこういうのにはもう驚かない。

 すぐにスマホを取り、その暗い画面を撮影した。

 「惜しいなあ。あとゼロコンマ1か2秒の差だ」

 私には割と鮮明に見えるが、これではほとんどの人が目視出来ない。

 見える人はきっと百人中一人いるかいないかだ。

 私は画像よりも目視の方が鮮明に見えるのだが、これは何年もかかり修練したからだ。

 写真撮影をする時に、通常撮影と、フラッシュ撮影、さらに赤外線ライトを照射しての撮影と三通りの撮影の仕方を行い、それぞれの違いを観察して来た。

 可視波長域は、A目視<Bカメラ撮影(通常)<Cフラッシュ撮影<D赤外線撮影の関係にある。(手短に記すために、かなり端折った。あくまで意訳。)

 とりわけ、C、Dの見え方を点検しているうちに、よりよく見る方法を会得するようで、目視の頻度が高まる。

 こういうのは、特別な霊能力の有無が関係しているのではなく、持って生まれた可視波長域の広さと修練によって、見える幅に「個人差が生じる」というだけだ。

 「見えない筈の者が見える」傾向は、多く「遺伝する」と言われているのだが、これは「可視域が遺伝するから」と捉えれば、説明が容易になる。要は視力で身体の問題だ。視力の問題であるなら、修練で強化することが出来る。

 

 あまり見えぬ人でも、1スマホを構える私、と、2)その私の胴に背後から抱き付く右腕、については、割と見えるのではないかと思う。

 他は殆どの人が見えない筈だが、実際には部屋中にぎっしり詰まっている。

 私に抱き付いている腕の持ち主については、「昨年、稲荷村社で拾った悪縁」が思い浮かんだが、しかし、これは女ではないかと思う。心が暗いので姿かたちも黒いのだが、私はあの世の者から察知されやすいので、自然に周りに寄り集まった者のひとつではないかと思う。

 これでは、体が重くなるのも当たり前だ。

 病気以上に、現状では平地を数十㍍歩くのにも苦労する程だが、寄って集って手足を押さえつけられているのでは、それも当たり前だと思う。

 

 部屋には「幽界の霧」が出ているのだが、これは幾層にも異なる深さを持っている。大別すると、前の層、中間層、後ろの層に分けられるのだが、どこに視線を集中するかによって、見え方が異なる。

 もっとも前の層には、私の背後に続く隊列がいるのだが、これはもはやお馴染みの状況だ。

 眼には見えずとも、無意識に気配を感じ取るので、繰り返し夢に「亡者の群れ」が現れる。

 ま、こういうのは、見えぬ者にいくら説明しても無駄だ。

 デタラメに聞こえるだろうが、別にそれでよい。そもそも他の者には関わりのない案件だ。

 「聞こえぬのだから、その音は存在しない」という例えを持ち出すまでもない。聞こえる者にはただの事実であり、あの世は実存に他ならない。信じる/信じないという次元の問題ではない。

 

 今回の焦点は、私にはもっとも後ろの層の中に「着物姿の老女」が見えることだ。

 最近の日記に、「このところ、頻繁に母が傍に立っている気がする」と書いた筈だが、この着物のアンサンブル姿は母ではないかと思う。生前の母は、訪問着として好んでこの組み合わせを着ていた。

 私は本人をもっとも間近で見ていた者だから、幾らぼやけたシルエットでも、それと分かる。

 母はやはり息子を案じて見守っていたわけだ。

 息子の方は「自分の死後は、気に食わぬ者を回り、祟りの雷を振り下ろそう」と思っているわけだが、母の気配を感じると、少しそういう気持ちにブレーキがかかる。

 ま、気を付けるべきは、「母のふりをした別物」のこともあるから、騙されぬようにする必要があることだ。

 

 さて、以上は「ちょっと気の触れかかった変人」の世迷い言だ。(さらにそれに「死に掛けの」という言葉が加わる。)

 よって、これを真面目に読む必要は無いし、そもそも、殆どの者には見えぬし、修練をしていない者には理解しようがない話だ。

 立ち入らず放り捨てるのがよい。

 ま、いずれ誰彼構わず「あの世が実在する」ことを示す機会は来ると思う。それがたとえ、私の死後であっても。

 

 さて、私は今、生死を分かつ境界線上にいるが、あの人影たちは「私が死ぬところを見に来ている」という可能性もある。とりあえず、ご神刀で全身を清めたが、こんなことでは到底解放されまい。

 

 注記)暗がりを見て「何となく変な気がする」人は、拡大して見たりせぬこと。女の悪縁(霊)でやや厄介な者がこちらを覗き込んでいる。こういうヤツは自身を見る者・見える者に興味を持つ場合がある。

 見えぬ者、違和感を覚えぬ者にはまったく影響はない。(「存在していない」。)

 本物の悪縁(霊)は怪談話と違い、触り・祟りは死後も続く。祓おうとすれば関係者全員に祟る。

 初期の段階で「そんなのあるわけねえだろ」とスルーするのが一番だ。だが、けして軽んじたり嘲笑したりせぬことだ。そういうのは必ず先方に聞こえる。

 

 今回、画像で見るよりも、目視で見た方がはるかに鮮明だった。さすがに少し動揺したようで、筆勢(語気)が強くなっている。