日刊早坂ノボル新聞

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◎「着物を着た老女」の周辺

令和四年五月二十三日撮影

◎「着物を着た老女」の周辺

 五月二十三日の画像では、窓の下にある長椅子の端に「着物を着た老女」が座っていた。その佇まいが母にそっくりだったので、少なからず驚いた。

 また、この位置は、私にとっては定位置のひとつだ。

 

 たまたま映画に夜の場面が多く、画面が暗かった。

 自分自身と居間の様子が映っていたのだが、背後にほの白い顔が七つ八つも浮かんでいた。この手の光景を初めて見た時には、具合が悪くなるほどだったが、さすがに今では慣れた。

 だが、やっぱり自分の家の中では嫌なものだ。

 

 私に手を掛けているヤツは「助けて欲しい」と思って縋り付いているのだが、そいつの後ろにも同じことを感じている者がいて、隊列を作るように連なっている。私が「フラグ」になっているということだが、しがみ付かれると、やはり体調に影響があるので、切って捨てた。海で溺れている者を助けに行こうと近づくと、しがみ付かれて、両方とも溺れてしまう。助けられるのは、救護者が距離を置いて対処した時だけだ。

 あと0.3秒くらい撮影が早ければ、青白い顔の数々が写ったと思う。ま、画像の鮮明さとかはどうでもよい。

 何せ、私は、直接、彼らの顔を見ている。

 

 死者は感情だけの存在だが、生きている者と根本的に異なるのは「生気がまったくない」ことだ。

 私の「母」のように見える人影も、表情が強張っており、氷に触れるみたいに薄ら寒い。

 死後、自分自身がこういう状況(幽霊になる)が待っているかもしれぬことは、頭のどこかに置いておいた方が良いと思う。

 死後を直視するのを避けて来た者の中には、あてもなく歩いている者がいる。その時には既に物を考えられなくなっているので、自身の状況を掴むまでやたら時間が掛かる。

 で、その多くは私のような「あの世と接点を持つ者」の周りに集まり、「助けて」と叫ぶ。

 

追記)「どこにどのような性質の者がいるか」を悟ることが出来、さらにそれが「自身の存在に悪影響をもたらす者かそうでないか」を見取ることが出来るのなら、姿かたちなどはっきり見えずとも良くなる。

 「誰にも分かるような」恐ろしい姿を捉えたいという姿勢は、単なる自己顕示や功名心による。塵ほどの意味もない。

 「あの世ウォッチング」は、自分自身の「生前と死後」をよりよいものにしようという試みだ。ただの関心で知ろうとしているのではなく、対処策を考える必要に迫られてのものだから、他人の理解などどうでもよい。

 色んな見解を聞くが、総てが興味本位によるものだから正直馬鹿らしい。

 

訂正)鏡と同じで左右が逆に映るから、背景の窓は「カウンターの窓」の方だ。

 母がいるのは長椅子ではなく、長テーブルの椅子の方だった。あとは特に配置などで認識の違いはない。