日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎結局、吉牛に立ち寄る

結局、吉牛に立ち寄る

 日曜は久しぶりに所用で外出した。

 神奈川県まで運転したが、圏央道が繋がったおかげで、かつての三分の一の時間で行き来できるようになった。

 所用が済んだのが夕方だったが、途中で神奈川旅割クーポンを貰っていた。

 二千円分だ。期限は一両日以内。

 「二千円なら、和食屋で鰻御膳の五千円を注文しても、鰻重一杯分だ」

 理屈はともかく使うことにした。

 「まずはregeonPAYをダウンロードして・・・」

 ところが、何度やってもダウンロード中に止まってしまう。

 何か阻害要因があるためだが、恐らくは、電子マネー系を一切使わぬようにしているので、いずれかのセキュリティが働くからではないかと思う。

 二時間半もあれこれ操作したが、結局出来ない。

 頭に来て、そいつを貰ったところで、「ゴネにゴネて」やろうと思い、そっちに向けて歩き出した。

 途中で昼に通り掛かった「鰻御膳」の和食屋の前に出たが、なんとこの日は宴会が入り、予約席だけだった。

 「そもそも入れねえじゃねえか」

 ここで鰻へのパッションが失せ、すごすごと引き返した。

 車に戻り、神奈川の知人にメールを送り、「使って」とQRコードの数字の方を連絡した。

 知人はすぐにダウンロードできたらしい。

 

 結局、圏央道を使ってまっすぐ帰ったが、家の近くに着いたのは十一時頃だった。

 丸一日何も食べていないので、さすがに空腹だ。

 すると目の前が吉野家だ。

 「何年かぶりに牛丼でも食うか」

 だが、今や「並」一杯を半分も食べられぬ体になっている。

 とはいえ、肉はリンが多いから普段は食べぬのだが、今は細胞膜保護のために「積極的に食べる」必要があるから、並弁当を子どもらの分と合わせて買った。

 帰宅して食べてみたが、やっぱり半分も食べられん。

 肉が重くて胃が手を上げてしまう。

 「同じようにリンの多い食事でも、鰻は食べられるんだがな」

 ま、ニ三回に分けて食べることにした。

 

 目覚めた後は、このところ出ていた足の浮腫みが小さくなっていた。ある程度、たんぱく質を摂取したためだ。

 ちなみに、鰻なら一発で浮腫みが完全に消える。これは特定のビタミンを多く含むためだ。

 (浮腫みの原因は人により様々なので、皆が同じにはならない。)

 

 看護師と話したが、「タンパク質が不足すると細胞膜が破れやすくなり、肺水腫などに至るから、死に直結する」から、「タンパク質はリンが多く、過剰摂取すると動脈硬化の原因になる」ことよりも優先する必要がある。

 過剰摂取なら「そのうち心筋梗塞脳梗塞で死ぬ」可能性があるわけだが、欠乏すると「すぐに肺水腫で死ぬ」。「目の前の死」よりも「明日の死」の方が後回しになる。

 何年かぶりに食べた「吉牛」は、昔の味と違う気がする。

 ま、体力がありモリモリ飯を食っていた時期とは、そもそも受け皿が違うという要因もあるが、素材や味づくりも少し変わっているのではないかと思う。

 

 ところで、吉牛と言えば、管理職の「田舎から出た女子学生が、レストランを覚える前に牛丼漬けにしろ」という言葉が耳に新しい。(文言は不正確だ。)

 田舎にも吉牛はあるが、そもそも女子学生が「一人で牛丼屋に入る」ことには、今でも抵抗があると思う。

 これを「地方から出て来たばかりの女子学生でも気楽に入れるような店づくりをして、食習慣づけて貰う」と言えば、ほとんど同じ意味で、受け入れられた。

 吉牛管理職のような乱暴な言い方は、「あこぎなコンサル」が営業改革の指導の時などによく使い言い回しだ。テーマを与えた上で、考える余裕を数秒しか与えぬと、指導される側は「どんな手を使っても店に呼び込む工夫がいるということだな」と端的、短絡的に受け止め、言い回しの粗暴さに気付かない。

 東京の私立大学に娘を進学させるような地方の親は裕福なことが多く、その娘は「吉野家に一人で入ったりなどしたことがない」筈だ。

 言い回し自体がそもそも「娘をシャブ漬けにして売春させる」みたいな犯罪映画のノリだ。でも、現実の不良でもそういう話などはしない。

 映画や小説の不良イメージの語りをそのまま使っているところがコンサル的には「失格」だと思う。

 これは「何ひとつ裏を取っていない」という意味だ。

 商品を売ろうとする相手について、まったく調べていないし、例えで引用したものも雑で現実離れしている。

 

 脱線したが、50キロ以上外出するのは、優に半年以上ぶりだった。

 つい三週間前までは、夜中に呼吸が出来ず唸っていた。

 これから態勢を立て直すのは大変だが、しかし、生きていてナンボだ。

 次に体調を壊したら、その時が本当の終わりだという実感があるから、苦痛や苦労も人生の味のひとつだと思い、受け止めるべきだと思う。