日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 耳元で「殺してやる」と囁かれる

◎霊界通信 耳元で「殺してやる」と囁かれる

 五日日曜の午前四時頃に、居間の床で寝袋に入って眠っていると、耳元で声が響いた。

 「殺してやる」「殺してやる」

 しわがれた声で二度囁く。声がかすれているので、男なのか老婆なのかが分からない。耳のごく近くなので、さすがに眼が覚める。

 

 「殺してやるも何も、俺の寿命はあと僅かだから、放って置いても死ぬんだけどな」

 ただ、夢や妄想ではないだろうことは確か。

 文字では伝わらぬが、言い回しに関東北部の訛がある。私はその地方の方言を言うことが出来ないから、私自身の考えたことではなさそう。

 ま、かなり溜まって来たことだし、お寺に行くことにした。

 

 六時に娘を駅まで送り、すぐに仕度をして飯能の能仁寺に向かった。

 まだ六時半前だから、着くのは七時頃で、たぶん、駐車場にも入れる。

 能仁寺の隣が商業施設で、休日はそこの客で駐車場が一杯になる。近くに公共駐車場があるが、そこも満杯なので、勝手にお寺の駐車場を拝借する客も多い。

 だが、七時台なら参詣客も買い物客もまだ出て来ない。

 

 能仁寺は山門を入ると、すぐに緩やかな坂道になっている。ほんの十度か十五度くらいの傾斜だから、前回は何も苦痛を感じず坂を上れた。

 だが、この日はその同じ坂が上手く登れない。きつくて途中で三度四度と立ち止まった。

 「こりゃ、体調がかなり下がっているわけだな。それ以外の理由もありそうだ」

 休み休みで内門に入る。

 

 境内では、お焼香の後、お茶を供え、今朝方私を脅した者に対し「誰から構わず当たり散らしたくなる気持ちになることはある。だが、いくらそれを繰り返しても、何も変わらない」と諭した。

 それでも、どんな者でも救われてよい。無駄な人生などは無く、この世とあの世のプラスマイナスを相殺すれば大体帳尻が合うようになっている。

 「死ねば終わり」という「現実的ではない妄想」を抱えているから、目先のことで腹を立て捨て鉢になる。今生のツケはあの世で払うし、この世で多くのものを得ているなら、あの世ではそのツケを返すことになる。死を「折り返し点」に置き、両方を通じたタイムスパンを想定すれば、苦痛は軽減されるし、逆に順境だからといって傲慢になることもない。 

 「ここで降り、ご供養して貰えばよい。まだついて来るならご神刀で繰り返し斬る。かなり痛いよ」

 ま、ちょっと拝んだくらいできれいになるわけではなく、これから繰り返しご供養を施し、半月くらいはかかると思う。

 能仁寺を出た後、帰路の途中で高麗神社に参拝した。

 これはセルフチェックのためだが、この時点でまだ八時だし、TPOが整わない。

 画像に残ることは稀だ。

 撮影した画像を確かめると、やはり日光の向きが逆で、うまく写らない。

 ただ、一枚だけ、私の右後ろに人影が出ているものがあった。

 私は柱の前にいたのだが、その柱が黒い「ひとのシルエット」で隠れているから、柱の前、私のすぐ後ろに人影が立っていた、ということだ。

 女だと思うが、判然としない。

 

 「殺してやる」などと囁くのは、ひとに恐怖心を与ええるためだ。

 恐怖心を覚えると、ひとは狼狽え、統制されやすくなる。それに乗じて心の中に入り込み、その人の人格を乗っ取るのが、悪縁の使う常套手段だ。

 動じないことが基本で、あとは相手の有利なテリトリーに入らぬことで障りの影響が小さくなる。

 基本は人に対する姿勢と同じ、毅然としていればよい。もちろん、相手に対し敬意を払う必要もある。