日刊早坂ノボル新聞

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◎今日のご供養(能仁寺3/25)

今日のご供養(能仁寺3/25) 
 たまたま家人のSNSを見ると、小鹿荘前での画像が出ていた。私の後ろ姿が写っている。率直な感想は「頭頂部が薄くなったなあ」。短髪にしていると目立ちにくいが、それでもハゲは禿げ(残念)。

 だが、冷静に見直すと、左肩付近に煙が出ている。
 長椅子の隣や背後にも影が見える。
 とりあえず翌日の朝ご供養に行くことにした。

 月曜は生憎の雨で遠出はし難い。
 このため、飯能の能仁寺に参詣することにした。
 いつも通りの手順で、お焼香をし、境内の隅にあるあづまやで慰めた。
 直感と想像・妄想は明確な区別がつかないわけだが、無理やり線引きを考えるより、「あることを前提として対処する」方が簡便だ。間違いや判断ミスが起きない。

 それが幽霊の影響なのか、あるいは想像や妄想だけの存在なのかを線引きするのは、好奇心の範囲の話だ。あるいは第三者的なものの考え方で、現場に立つ者はそんな悠長な眺め方をしていると、対応が間に合わなくなる。

 車の運転をしている時に、「何か」が前に飛び出て来たら、「それが人なのか、動物なのか、朽木なのか」を考えているうちに撥ねてしまう。この場合に優先することは、「まずはブレーキを踏んで車を停める」ということ。それが何だったかを確認するのは、衝突の危険が去った後で良い。

 この理屈が分からない人の方がはるかに多い。


 この場合は、自分の傍に「その人がいる」ことを前提に対話をはかるということになる。
 まずは自分にとって最も大切な人たち、要は父母に感謝した。
 次は、夢に出て来た女性を想定して、対話を図った。
 どんな女性だったのかは知りようがないので、親の立場から娘がどう見えているか、どれほど大切に思っているかを話した。
 次女は失恋の痛手から回復していないようで、今もほとんど口を開かない。
 「直接に伝えたりしないが、父親だけに娘のことを案じている。これはあなたの親族も同じだ」
 亡くなった娘・妻・母親のことを想い、きっと今も手を合わせている。その想いに応える最善の選択は「先に進むこと」だ。
 今の感情に執着せず、先に進む。これは般若心経の示す通りだ。

 お不動さまに女性をお願いした後、次は自分のセルフチェックに向かった。
 家人の画像を見て気付いたことは、「ガラス窓に映る景色に歪みが少ない」ことだ。
 私が撮影すると、TPOの違いはあるが、ガラス窓の景色が著しく歪む。このことを私は「誰にでも起きること」と見なして来たが、実際には「ごく一部のひとに起きること」なのかもしれん。
 神社の窓ガラスに自分を映すと、遠近や位置関係が著しく崩れる。
 九枚目の画像では、右端に参拝客の若い女子が見えるが、この子がいるのは空中だ。体も大きく歪んでいるから、「この子は生きた人間なのか?」と思うほどだ。
 ま、景色がデフォルメされた変化だと思う。

 私自身については、さしたる異変は起きておらず、煙玉が少々見える程度。髪の毛がやたら増え、女性のようだが、これくらいは普通に起きる。
 腕が四本五本に増える時もあるので、むしろ「異変が少ない」方だと言える。
 遠目だと、私の姿はまるで女性のようだが、この日の経緯を考えれば、それも当たり前だと思う。
 私があの女性なら、自分に理解を示してくれる者(私)の傍にいる方が心地よい。

 それなら気が静まり、落ち着くまで別にいても構わないと思う。執着される関係ではないから私に影響はなし。

 ところで、能仁寺の駐車場に居る時に、傍で掃除中の「寺男風の女性」に挨拶をしたら、そこからあれこれと対話になった。
 ちなみに、お寺の下働きをする人のことを「寺男」と言うが、女性の場合は何というのだろう。「寺女」という言い方はないので、やっぱり「寺男の女性」なのか。
 実際には、お寺の関係者というわけではなく、近所の人がご奉仕で掃除をしていたらしい。
 この女性は誰かに「今のホ―ジョーさんと前の人との違い」を訴えたかったらしく、かなり長く語り、私は雨の中で話を聞いた(寒い)。
 車に乗ってから、「ところで『ホージョーさん』って何?」と疑問に思ったが、後で調べると、「方丈さん」は、曹洞宗などで「住職」のことを指す言葉なそうだ。