日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「道に立っていた」

◎霊界通信 「道に立っていた」
 今朝方、夢とも想像ともつかぬ状態で、ある光景が思い浮かんだ。
 自分は道端に立っている。特に何をしているわけではなく、ただぼんやりと立っていた。何かを考えているわけでもない。
 ぼおっとして、取り留めのない断片的な思い出を反芻している。
 すると、その自分の前を人が通り掛かった。
 男だ。
 その男の人は、自分の前に来ると、「あれ?」と小首を傾げたが、そのまま先に進んで行った。
 そこで、何となくその男の後をついて行った。
 特に理由はない。その男のひとが私を見たから。
 この辺で、これを考えているのが「私」だと気付く。つい先ほどまでは「私」という意識が無かった。
 そこで改めて、前を進む男を確かめると、その男は「私」だった。こりゃ一体どういうこと?
 待て待て。私は私だが、あの男も私だ。
 で、その男は「男」だが、私は「女」だった。
 ここで声に出して言う。
 「おいおい。それじゃあ、本物の私はあっちの男の方だぞ」

 ここで我に返る。
 道端に立っていたのは「女」の私で、すなわち普段の私ではない。私はオヤジジイで、それが本来の私の筈だ。
 ということは、「さっきぼんやりとものを思っていたのは私ではなく別の誰か」ということだ。
 こんな風に自意識が混濁する状態は、「別のヤツが頭に入り込んでいる」ということだ。

 そこですぐに最近の画像を点検して見た。
 思い当たるのは、小鹿荘の玄関の写真だ。
 私自身の姿は映らなかったが、子どもたちの気配は分った。
 「だが、前回(一月)の子どもたちは俺の右後ろにいた」
 左側の「手」は誰のもの?

 ここで前回開かなかった次の画像を開いた。
 すると、石臼のところにいたのは、女児ではなく大人の女性だった。前回の画像では、前に女児がいたが、その後ろにこの女性が立っていたのだった。

 ここで、ここに来る前の観音院のことを思い出した。
 太陽を背にして撮影したのに、逆光の時に生じる光のハレーションが出た画像があった。その時に「何となくそこに女性がいるように感じる」と書いたが、やはりその時には近くに女性がいたらしい。
 そこに来る前から、たぶん、私の後ろを歩いていた。
 要するに、道端に立っていた「私」とは、その女性のことで、その女性の眼を通して私を見ていたわけだ。
 普段とは逆の展開なので、少しく慌てさせられた。
 
 女性は三十歳くらい。たぶん前厄の頃に亡くなった。
 小さい子どもがいて、その子のことが心残り。だが、かつての詳細については殆ど思い出せなくなっている。
 ぼんやりと立っていたところに、灯台みたいな者(比喩だ)がやって来たので、何となくそれについて来た。

 この女性の判断は正解だった。私は女性に気付き、ご供養を施してあげられる。
 いつも記す通り、これが総て妄想なら、その方が有難い。こういうケースの中には、時々駄々をこねる者や性質の悪い者がいて、関わった者(私)に苦痛を与える。
 妄想癖ほどすばらしいものはない。それは「今後も何も起きない」ということだから。

 TPOが合致していれば、女性の姿が鮮明に見えたと思う。
 精度が上がっているので、いずれその機会は来る。

追記)「お稚児さま」に会ってから、迷いが無くなっていたのに、昨日今日と心中がもやもやしていた。「女性の私」の夢もしくは妄想を観て、その理由が分かった。
 早速、お焼香を始め、今も慰めている。

訂正)女性の頭にあるのは、小さい子どもの顔で、これはこの女性が執着することで実体化したものだと思う。子どもが泣いているのではと案じている。繰り返しそれを思い描くので、それが実体化した。あの世が「主観的に構成される」というのは、すなわちこういうことだ。思い描いたことがかたちになって現れる。