日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎女たちのための祈り(658)

◎女たちのための祈り(658

 この半年くらいの間に、様々な幽霊が寄り憑いて来たが、女たちの「助けて下さい」と言う願いを叶えていなかった。この日、ようやく雨が上がったので、お不動さまの近くに行き、ご供養を施すことにした。最近のご供養は飯能の能仁寺だ。ここには境内にきちんと休憩所があり、そこで暫くの間時を過ごすことが出来る。

 お寺の境内には休憩所、お墓の中には小公園が必要だと思う。それで、死者と十分に対話するだけの時間が持てる。

 

 お寺の参道を上がって行くと、どういうわけか体が重い。

 「最近は心臓の調子が悪くはないのに、今日はやたら体が重く足が上がらないな」

 まるで後ろにムカデ行列でも連れて来ているかのようだ。

 ここでハッと気づく。

 「俺に寄り憑いたのは、女たち数人だけではなかったのか」

 この感触では、三十人(体)はいそうだな。

 

 後ろを振り向くが、もちろん、この光の環境では何も見えない。

 だが、疑いはない。

 「これじゃあ、俺はまるで観光ガイドだ」

 それならその調子で行こう。

 

 「では皆さん。今日はここでお焼香をしますから、その後で降りたい人は降りてください。ここなら朝晩、お坊さんたちがお経を上げてくれますよ」

 お焼香はいつもより多めの束で行った。

 本堂では片手を上げて、周りに告げる。

 「はい。ここまでですよ。ずっと乗っている訳にもいかんでしょ。それに、私に断りなく勝手に乗っている人もいるでしょ。きちんと断るか、運賃を払って乗って下さい」

 冗談なのだが、そう言いたくなるほどぞろぞろと居る気がする。

 私のこういう感覚は、実際に当て嵌まっていることの方が多い。

 

 それから、とりわけ女たちに私なりのご供養を施すために、休憩所に向かったが、生憎、先客がいた。

 私なりのご供養方法とは「対話」で、思いを言葉に出す。だから、他に客がいると、きっとその客は驚くと思う。

 そこで、休憩所ではなく、裏の方にあるベンチに座ることにした。

 境内の隅にあり、石のテーブルなどが置いてある。

 そのテーブルに女たちの写真を置き、この日は暑かったので、水ではなくお茶を供えた。

 それから、私は私の母がどれほど息子の私を大切にしてくれたかを話した。

 そして、それは亡くなった後も続いているし、私もそれを感じていると伝えた。

 毎日、母のことを思っている。思い出を反芻している。。

 「あなたたちが亡くなり、親御さんや兄弟姉妹、旦那さんや子どもたちは、あなたたちのことを思い悲しまぬ日は無いでしょう。毎日寂しく思っている。そういう思いに報いるためには、前に進むほかはないのです。例え話をすれば、学校を卒業するのと同じことです。今生はもう卒業したのですから、懐かしいからと言ってその小学校や中学校に留まろうとしても、同じようには暮らせません。卒業したら今度は先の学校に進むことになるんですよ」

 家族に対す愛情や未練があるなら、前に進まねばならない。

「今生のこだわりを捨てられれば、またまったく別の人生を歩むことになるのですが、その時に改めて今の思いを成就させればよいのです」

 残して来た者たちへの愛情を覚えるからこそ、先に進む必要があるのだ。

 

 「気持ちが鎮まらぬのなら、まだ暫くは私の傍にいるとよい。私の眼で物を見て、私の耳で人の声を聞く。すると、他にも同じような者たちがいることに気付く筈だ。そこでようやく自分自身を見つめ直すことが出来るんだよ」

 もちろんだが、生きている者にしがみついたりはせぬことだ。溺れる者が助かりたい一心で人にしがみつくと、多くの場合、その相手も溺れることになる。その時は容赦なく祓う。

 

 境内で暫く時を過ごし、お寺を後にした。

 トラの神社にも参拝したが、階段を上る足は幾らか軽くなっていた。

 だが、乗り合いバスと同じで、あちこちで降りる者がいれば、またそこで乗って来る者もいる。

 時々はまとめて下ろす工夫をしないと、健康状態にも影響が出る。

 

 私は自分の言動についても「半ばは妄想」と疑っているところがあるのだが、現実の事態が伴っている。

 これを書き始めてから小一時間経ったが、閉めた筈の部屋の扉が、今は扉が開いて廊下が見えている。

 何時どうやって開いたのか。

 でもま、何時だってこんな調子だったのだから、今さら驚くことでもない。

 

 追記)部屋の扉を開けたのは「水泳部の女」だと思う。何となく「果物が食べたいのだな」と思ったので、帰路にメロンとブドウを買って帰った。先ほどそれを切って食卓に出したが、そのお礼に来たようだ。

 体育会系だけに、「柑橘類と塩分」かもしれぬと思ったが、メロンでよかったようだ。

 もちろん、因果(ストーリー)自体は私の妄想の範囲ということで。