◎この日はご供養デー(643)
まだかなり周囲に残っている感じがあるので、この日は午前中からお寺に行くことにした。飯能の能仁寺なら不動堂があるので、当家にとっては墓参りと同じことだ。
駐車場に車を停め、坂を上ろうとしたが、春から初夏の体調不良がいまだに後を引いて居り、うまく戻って来ない。わずか十度にも満たぬ勾配なのに、脚が前に進まない。
後ろから来た八十歳くらいのご夫婦に追い越される始末だ。
困ったもんだ。ま、机の前にも四十分と座っていられぬ状態だから、休み休みでも「まだ歩ける」と思った方がよさそうだ。
境内では、いまだ傍にいる者たちに「朝晩ここでお経を唱えて貰えば、少しずつでも気が慰む。もう死んでいるのだから、生前の気持ちに執着しても仕方がないんだよ」と説いた。
お経を唱えられても、意味は分からぬかもしれんが、いずれ「あの世(幽界)にいる」という実感が湧くかもしれん。
死後にしばらく闇の中に留まる者たちがいるが、目覚めた時には、多くを忘れている。自分が死んだことすら分からぬほどだ。で、そういうのが、それと分かりやすい者に飛び付いて来る。溺れている時と同じなのだから、それも仕方がない。
そういうのを見たら、こっちが引きずり込まれぬように、手を添えて分かりやすい地点まで連れて行く。お寺のこともあれば、神社のこともある誌、当人(死者だが)の思い出の地のこともある。
不動堂では、迷える亡者を引き取って貰えるよう祈願した。いつもはお礼を述べるだけだが、こういう時には頼みごとになる。
不動明王は普段お寺で見るような人の姿をしておらず理念だけの存在だが、仏神のような扱いをさせて貰っても別に構わないし、その方が分かりやすい。
お寺を出たところで、少し付け足した。
「さて、まだ怒りを抱えたままついて来ている者がいる筈だ。それなら付かず離れず傍にいるとよい。追々は共に協力して、この世のイカサマ野郎どもに祟りの雨を降らそう」
基本、私はそっちのグループだ。
どうしても許せぬ相手がいるなら、アモンに祈れ。アモンは理念ではなく実在する霊(悪縁の方だが)だから、聞き届けてくれるかもしれぬ。もちろん、そのツケは各々が自分で払うことになる。
ここから車に乗り、「トラの神社」に向かうことにした。これは自分自身の状態を確かめるのが目的だ。
神殿の前でガラス戸に自分自身を映すと、さすがに前回よりはましになっていた。
自分のものではない手が背後から三本も出て、胴体に掴みかかられているのでは、良い気分になれる訳がない。
中には、こちらの説得に応じず、とにかく抱き付いて来る者も居る。
そうでなくとも病気に苦しめられているのに、余計に体を重くされたのでは堪らない。
ま、丁寧にお寺から回って来たから、しばらくは悩まされずに済むかもしれん。
画像の歪みは「気のせい」の範囲で、これに越したことはない。
どうやら少なくとも、週に一回は「ガス抜き」が必要なようだ。
ところで、家人が最近、「塩の枕」を購入した。
「なんでそんなものを?」と問うと、「最近、夢枕に幽霊が立ってよく眠れない。御塩の枕があれば熟睡できるかと思って」ということなそうだ。
心中では、ワクチンの日以降の経過に合致しているので、「そりゃダンナがあれこれと持ち帰っているせいだな」と思ったが、とりあえず黙っていた。
では、この幾日かは、二階と一階の上下の部屋で「何者か」が立っていたわけだ。
まったく別々の話なのに、起きている事態は符合している。
ちなみに、居間で聞こえる「女の声」は、「二階でも聞こえる」とのこと。