日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎母の命日に

◎母の命日に

 三月十七日は母の命日になる。

 郷里の墓参りに行ける状態ではないので、お不動さまにお参りすることにした。

 足の調子がイマイチなので、最寄りの不動さまに行くべく車に乗った。

 すると、何だか後部座席に人の気配がある。

 視線を向けずに、「お袋なのか?」と訊いたが、はっきりした反応が無い。

 だが、前日の病院では、隣に母が座ったような気がしたし、家の浴室で洗面器が勝手に転がり落ちた。

 「では、とりあえず能仁寺に連れてく」

 適切な表現かどうかは分からぬが、能仁寺は最近のお気に入りで、割合、頻繁にお焼香に訪れる。

 本堂でお焼香をした後で一休みし、母との会話を思い出した。

 生前の母が兄について行っていたことを思い出したので、すぐに郷里にメールを打った。母は息子二人のことを対等に扱おうとしており、そのことを私にはきちんと伝えたのだが、たぶん、兄には話していなかったのだろう。

 それから不動堂に行き、母の安寧を祈った。

 写真をすぐに開いたが、幾らか煙玉が出ていた。ま、この日は曇りだし、じきに雨も降る。ただ、何となく左手からの視線を感じるので、直帰するのは止めて、トラの神社にも参拝することにした。

 もはや六七年前になるが、初めてトラに会った時に、神殿まで先導して貰ったが、あの時にはその猫の前に「巫女さま」がいて、猫を導いていた。

 さすがに今ではそれが分かる。自分なりの修行の成果なのか。

 

 お寺で穏やかな時を過ごしたので、心が落ち着いている。

 神殿の前で撮影したが、大きな異変が起きていなかった。普通は光の進行方向が歪み、ぐねぐねと景色が歪むのだが、この日は殆ど変わらず。概ね良好だ。

 だが、私の真後ろには、母ではない女が立っていた。

 髪が肩にかかるくらいの長さで、その髪だけが少しだけ覗いている。

 これは「他の者には見せぬが、私だけには分るように」という配慮をしていると思う。

 巫女さまにも似ているが、はっきりとは言い切れない。この辺、私はまだ修行不足だから相手がどういう者なのかがはっきり分からない。おまけに、いつも雑多な者に囲まれている。

 

 ただ、家を出る時に車の後部座席に乗っていたのが、母ではなかったことは確かだ。

 悪意は無く、傍にいても問題はない。

 能仁寺に着いた時に、私は母の言葉を思い出し、自分でも意識せぬまま涙を流していたのだが、あれはこの女の心情だったのだろう。

 不動堂では、少し離れたところから私を見ていた。

 この数日の中で、母のことを思い出す機会が度々あったから、同じように母親を恋しく思う女がついて来たのかもしれん。

 繰り返し声を掛け、慰めることにした。

 

 あの世も幽霊も、基本は怖ろしいものではない。

 ひとの心にいろんな面があるのと同じこと。

 「人間の本性は怖ろしい」「人間にも良い心がある」の両方とも正しいのと同じことで、「ある一面を見ればそう見える」という違いだけだ。

 時々、距離を空けて、自らを眺め直すことを心掛けるようにすれば、冷静に付き合えるようになる。