◎霊界通信 「死者を慰める」3/11前半 能仁寺
三月十日(日)には、能仁寺にも高麗神社にも参詣参拝出来なかった。
あの女児のことが気掛かりだったのか、睡眠中に悪夢に悩まされた。
十一日の午前三時頃には、私は眠っていたが、それでいて自分が眠っていることを自覚していた。だが、突然、数百本の手が床から出て来て、私の全身を掴んだ。
そして、そのまま私を下に引く。
背中はコールタールの海で、私は少しずつ沈んで行った。
「おいおい。俺はこのまま地獄に引きずり込まれるのか」
だが、下から声が聞こえる。
「助けて」「助けて」「ここから出して」
大勢の声の中にあの小さい女児の声も混じっている。
ここで気が付いた。
「俺を引きずり込もうとしているのではなく、こいつらが上に上がりたいのだ」
私を引っ張っているのではなく、自分たちの体を引き上げようとしているのだった。
ここで覚醒。
これなら早いとこ、お寺に連れて行くに限る。
特にあの女児は本当に女児かどうかは分らぬが、ひとまず頼れるのは私しかいないと思っているだろう。ならお寺でも神社でも望むところに連れて行くのが早い。
お寺にせよ神社にせよ、その地その地で固有の「気の流れ」があるから、めいめいに合う場所に連れて行けば、そこで離れる。
そこで日曜に予定していた通り、飯能の能仁寺に参詣することにした。
朝一番で向かったので、境内には人が数人いるだけだった。
お焼香をして、本堂に向かい、まずは背後の者たちに声を掛ける。
「ここで毎朝読経をして貰い、それを聞きながら己の一生を振り返り、心を穏やかにすれば、今の暗闇から出られる。ここで降りなさい」
ご本尊さまに向かっては、「沢山置いて行きますが、宜しく引き取って下さい」と祈念した。
ベンチがあるので、そこに座り、女児のために缶ジュースを開けた。
スプライトが良いのだが、これは売っていなかった。
私はジュースが禁忌食品なのだが、この場合は、飲んであげぬと女児が味わうことが出来ない。私の喉を通して女児もそれを飲む。
この後で、不動堂で手を合わせ、浮かばれぬ衆生を引き取ってくれるように頼んだ。
何となく、こういうのが自分の務めのひとつであるような気がする。
お寺を出ながら、今朝の夢を思い出した。
まるでコールタールの海に沈んで行くような状況だった。
それとあの何百という手と来たら。それと口々に叫ぶあの声。
ここで、単純なことに気が付いた。
「今日は三月十一日だ。海で亡くなった沢山の人たちの命日じゃないか」
あれから十三年が経つが、いまだ行方不明のままの人も数千人はいる。
不慮の事故で亡くなると、十数年の間、暗闇の中で眠っていることが多いのだが、いよいよ目覚める者も出て来ると見える。
十三周忌なら節目の時でもあるから、いっそう丁寧なご供養が必要になる。
叫んでも、殆どの生者には声が届かぬから、耳を傾けようとする者に沢山集まることになる。あの何百の手はそういう意味だ。
私は生来、田舎者で鈍感だ。目の前の出来事の持つ意味になかなか気付かぬことがある。 (後半に続く)