日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「お寺に行き着けなかった」

◎霊界通信 「お寺に行き着けなかった」
 この数日、右の脇腹に違和感があるが、名栗に行った頃からだと思い出して、その時の画像をチェックしてみた。
 すると、見逃していたが、右腕付近に女児の姿がある。しがみ付かれているので、これが重く感じるわけだ。
 「小鹿野のあの子ならいいけれど、別のだろうな」
 すぐにご供養することにし、日曜の朝にお寺に出掛けた。
 ところが、飯能の能仁寺は何かイベントがあるらしく駐車場に入れず。そこで高麗神社に向かったが、こちらはマラソン開催のため、そもそも道路が通れなかった。
 仕方なく、すごすごと帰宅することになった。

 画像の右側に歪みがあったので、何か変化が起きているだろうと思ってはいた。煙の筋が見えていたが、神職の着物と紛らわしいので、静観していた。
 だが、これは羽織の端ではなく「蜘蛛の糸」で、幽霊が寄り憑く時の触手だ。体感的には、顔に掛かれば、ちょうど「蜘蛛の糸」に触れた時の感触と同じになる。顔以外ではほとんど気付かないから、腕に絡みついていてもそれとは知覚できなかった。
 ただ、右腕から右腰付近が重いので、何かあるだろうとは見ていた。
 画像を何千枚も見ている私が見落とすくらいなので、さらに粗くなるウェブ画像では、ほとんど判別は難しいと思う。
 遠目では子どもに見えるのだが、触られている感触では、子どもではないと思う。その姿を取っているだけ。

 自宅に戻り「私には助けられぬので離れてくれ」と声に出して言い、お焼香をした。
 小鹿野のあの少女は、自分の傍に置き、近くで見てあげたいと思うわけだが、その心情を悟り、少女の姿で寄り憑く者が出る。
 当分の間は、亡者の群れの真っただ中にいると思うが、いずれこの群れを脱すれば、こういうことが減ると思う。

 ちなみに、僧侶や神職は知らぬと思うが、祝詞やお経を唱えている時には、周りに数多くの幽霊が集まってそれを聞いている。
 画像を撮影する時に、最も異変が映るのは、「最初の一枚」か「祝詞や読経の最中」になっている。そもそも寺社・神社は人々の思いが込められる場所で、その念が高まるのが読経や祝詞の間だからではないかと思う。