日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「謎解きのゲーム」

◎古貨幣迷宮事件簿 「謎解きのゲーム」

 古貨幣の観察主眼の代表的立場が「分類」だが、これとは別にかなり少数派だが「過程」、すなわち「鋳銭工程」に着目する見方もある。私は専ら後者の方。

 「どうやって作ったか」、すなわあち鋳銭環境や体制を探り、「何故作ったか」「誰が作ったか」を掘り下げていく。

 とりわけ密鋳銭の領域は、ほとんど情報が残っていないことが多いので、こういった「謎解き」のゲームとしては最適のジャンルになる。

 当四銭一貫文(金額換算の場合)が二百五十枚だから、一千枚でようやく一両相当の出来高になる。職人一人の日給の目安が少なくとも「日に一朱(二百五十文)」だから、型場に職人四十人を採用するなら、二両二分相当の人件費が掛かる。二千五百枚作って、初めて一日分の人件費だ。これに材料費や用具代、経営者の取り分を考えると、日に七八千から一万枚以上製造しないと元さえ取れなくなる。

 まずは金属素材や木炭の調達があり、場所の選定があり、職人の手配がある。

 やや大雑把な話だが、一度の密鋳銭の工期は概ね一旬から二旬だから、「少なくとも数十万枚製造」が下限になる。(「かなり多い」という例えだ。)

 となると、これを企画出来る者の数は限られる。何せ材料費だけでもトン単位の銅その他を買い集める必要があるからだ。

 

 効率よく銭を密造しようとするなら、次から次へと型に流し込み、仕上げる工程が必要だから、金属の配合や仕上げの仕方に統一的な基準が生まれる。

 常々、「こと密鋳銭では、分類では何も解決できぬので、工法に着目する必要がある」と言うのはそのことを指す。

 

 加筆するつもりだったが、概要は画像に添付していた。

 1、2はそれなりの体制規模を持つ密鋳銭座の出来銭で、とりわけ1については南部地方では雑銭に一定数の割合で含まれる。

 この銭種に最も近いのは、別の密鋳銭ではなく、山内天保になる。

 新渡戸の『山内に於ける鋳銭』その他を見ると、この地の銭密鋳の企ては文久年間辺りから企図されていたものらしい。盛岡藩に正式に鋳銭許可が下りるのは、慶応三年のことだが、山内ではそれ以前に何かを鋳た。

 慶応三年秋以前には、背盛、仰寶らの銭種はまだ認可されていないから、何か別の銭種を密造したということだ。なお何を作ったかについては、前述資料には記載がない。

 浄法寺からは、記述の通り、「玉鋼の背盛鉄銭」など稟議段階に近い時期の銭が発見されているわけだが、先行していたから経験があったということではないだろうか(っこは憶測だ)。

 浄法寺は鹿角尾去沢から距離的に近いので、銅の調達・運搬も目立たなかったろう。

 

 5、6の黒っぽい地金の銭は、一系統が立つ仕様で、同じ地金を持ち、縁を研磨した型は割と散見される。薄く仕立て、かつゴザスレ状に縁を研磨したのは、「材料の節約」という目的による。これは栗林の前期と同じ理屈になる。

 

 8の「鹿角の赤ペラ寛永」については、これまで繰り返し言及して来た。薄くペラペラのつくりで、風貌はかつての「日原銭」に似ている。単に削っただけのものがある一方で、鋳写しして作り直したものもある。中には著しく書体の替わったものまであるので、研究が必要だ。当四銭は文政銭の面背を削ったような風貌だが、輪側は横鑢である。

 最初にこれを見付けたのは、三十年前に青森のKコインさんを訪れた時だった。

 雑銭の上にピンク色の銭が載っていたので、ひとまず山ひとつを購入してみた。

 以後、十五年くらいは次が手に入らなかったが、巾着入りでまとまって入手出来たので、時々公開して来た。だが、これに気付いていた人はあまりいないようで、反応は無い。

 とにかく薄く仕立ててあるのが特徴になる。

 

注記)いつも通り、推敲も校正もしない。眼疾まであるので、ブラインドでの殴り書きしか出来ぬので念の為。