◎夢の話 第1K67夜 ここはどこ?
他人の夢の話ほどつまらぬものはない。夢の世界は悉く「一人称」で構成されるから、他の者が立ち入る隙が無いせいだ。モノローグなのだから、他人にとって何の意味も無く、面白いわけがない。
夢を記録するのは、他者との共感を求めるのではなく、主に自分自身を理解しようとするものだ。
夢が一人称なら、それを記録する行為もまた一人称になっている。
これは二日の午前三時に観た怖ろしい夢だ。
道を歩いていると、「大衆食堂」の暖簾が見えた。
いつも車で移動しているから、こういう食堂には寄りたくとも寄れない。
昔ながらの大衆食堂には、駐車場が無いことが殆どだ。
小腹も空いていたし、久々に食堂に入ることにした。
引き戸を開けて中に入ると、しかし、部屋の半分は事務所みたいな机や椅子が並んでいた。
自動車の販売店みたいな配置だ。
右手に目をやると、そっち側は隣の会社と続いており、そっちは印象通り車屋だった。
「なあるほど。店の半分を隣に貸しているのだな」
例のアレのせいで、外食産業が立ち行かなくなった時機がある。
その時に、店舗スペースの多くを隣の会社に貸して、経営を安定させようとしたわけだ。
「こんなご時世では生き残って行くのが大変だからな」
そこで食堂の側のテーブルに座った。
七十歳くらいの主人が出て来て、俺の前に水を出した。
「お勧めはこちらです」
俺が大衆食堂で食べたいものと言えば、丼ものだ。親子丼とかかつ丼とか。
壁の貼り紙に「天津丼」と言う文字が見えたから、それを頼むことにした。
中華屋なら「天津飯」と書くのだろうが、ここは大衆食堂だ。そもそも中華系の天津飯を置いてある方が珍しい。だが、天津飯は中華料理ではなく、日本生まれの日本飯だから、たまにこんな和風大衆食堂にも置いてあったりする。
すると店の主人がメニュウを指差し、「こっちの方がいいよ」と言う。
そのメニュウには、一番上に「満載定食」と書いていた。
色んな素材がお膳に並べられている。天ぷらとか焼き魚とか総菜とか。
それでたった六百円だ。
「こんなに沢山なのに六百円?ずいぶん安いですね」
「うちの客は皆これを食べるね」
なるほど。そりゃそうだろうな。。お得だもの。
「でも俺は天津丼が食べたいから、天津丼」
主人は頷き、厨房の方に去った。
ここで改めて、店の中を見まわした。
壁の貼り紙の色が変わっている。もう長く営業しているのだな。
こういう店は、大体、店主夫婦で切り盛りしているものだが、奥さんの姿が見えない。
厨房には店主ともう一人、三十台風の男がいるだけだ。
「息子か、あるいは従業員だろうな」
奥さんは休んでいるか、あるいは。
ここで俺は大切なことに気が付いた。
散歩のつもりで外に出た筈なのだが、果たして自分が財布を持って出たのかが不安になったのだ。
財布の代わりに免許証入れだけを持っていることもある。
慌てて尻のポケットを探ると、そこには何も入っていなかった。
すかさず胸や両脇のポケットを確かめるが、そこにも何も入っていなかった。
「不味い。これじゃあ、無銭飲食になってしまう」
まだ作り始めていなければ良いのだが。
そこですぐに厨房の前に行き、奥の主人に向かって言った。
「すいません。財布を忘れて来たから、家まで取りに行って来ます。作るのは少し待って貰いたいのだが」
すると、主人は俺を見ると、「いいよ。まだ作り始めていないからね」と答えた。
とりあえず店を出ようとすると、背後から主人が声をかけて来た。
「お客さん。三十分くらいで戻れるなら、その頃に合わせて作って置くけど」
「そりゃ助かりますね。私の名前は」
予約の扱いなら名前を言って置くのが普通だから、名前を伝えようとした。
だが、その名前が出て来ない。
「ありゃ、俺は」
少しく足を止めて考える。
「俺の名前は何だっけな」
自分が誰で、どこに住んでいたかが思い出せない。
そんなのは言えぬから、ひとまず店主に伝える。
「ここに戻ってからで良いです。なるべく温かいのが食べたいから」
引き戸を開け、外に出る。
「家に戻って財布を取って来ると言ったって、俺の家はどこだよ。そもそも俺は誰なのか」
女房や子供がいたような気がするが、もはや一切が霧の中だった。
ここで覚醒。
状況的には、認知症になり、それまでの記憶を総て失ったようだ。
だが、認知症の場合は、何十年も前のことなら覚えていることが多い。
夢の中の「俺」は一切が霧と闇の中だった。
「現時点の自意識だけがある」という状況は、幽霊の見る世界に似ている。
幽霊は「今の自分」と周囲の様子についてはぼんやりと認識出来るが、それ以外の過去の記憶の大半を失っている。自意識と喜怒哀楽の感情だけを持っており、訳も分からずただ彷徨う。
認知症になる夢ではなく、幽霊の気分を味わう内容だと思う。
そう言えば、座ると同時に寝入ってしまったので、「癒し水」を供えていなかった。
つくづく実感したが、「自分が誰か分からない」というのは、底知れぬ恐怖を感じる。
だが、「認知症になる」「幽霊になる」のいずれでも、あともうすぐで現実に味わえるかもしれん。