日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「しくじった話」

◎古貨幣迷宮事件簿 「しくじった話」

 三十四年前にウェブ古銭会を立ち上げたが、これは情報取集の拠点が必要だと考えたことによる。独自サーバを置いて、システムやコンテンツの書き換えがスムーズに行われるようにしただが、まだ「WWWって何なの?」という時代だ。今のようにWWW製作が誰でも容易に出来るわけではなく、専門の知識を持つ者が必要だった。

 コイン関係では固定画面方式のホームページではなく、いわゆる「可動ウェブ」で設計設定したのは、この会が事実上日本初だ。

 本来の目的が「情報収集」で、主に奥州に関連する知見を集めるというものだったが、ある時、「買い入れます掲示をしてみればどうか」と思い付き、実際に開示してみた。その後の経緯は幾度も書いたので省略するが、どちらかと言えば「面倒ごとが増えただけ」だった。

 ま、それも経験で何事も机上で考えた時と、実際にやってみる時とでは、状況がまるで違って来る。テレビでサッカーの試合を見て、観客の方は「こっち側にボールを蹴ればいいのに」と簡単に考えるわけだが、当事者にははるかに沢山の考慮すべき事情がある。それと同じこと。

 割と面白かったのは、各地の金融機関から照会が来たことだ。バブル崩壊の後やリーマンショックの頃に、経営に打撃を受けた金融機関が資産の見直しを行い、金庫の奥に退蔵されていた貨幣を発見する。

 寝かせて置くより、現金化した方が経営に貢献できるから、そのサンプルをまずはコイン業者に持って行く。その時の対応を見て、全体の資産を推測できるから、それで承認を取り、組織の認可を受けて売却に供する。そんな流れだ。

 だが、近代貨は未使用や特年などを除き、いわゆる「売れ線」の品ではないから、コレクションとしてまとまっていない限り、業者さんは色よい対応をしてくれない。これも当たり前だ。今ならネットオークションに自ら出品するという手立てがあるわけだが、当時はそんなものはなかった。

 ひと通り業者さんを回ってみた後に、ネットを検索して雑銭の買いに行き当たったのだろう。それで担当者が「ちょっと見てくれませんか」と電話を掛けて来たのだった。

 同じようなケースが複数あり、私自身が担当したのは三件だった。

 金種は金貨が少量、銀貨が大量で、他に青銅貨(竜)という構成だ。

 担当者は、例によって、サンプルを持参し、「こういうのは幾らで買い取って貰えるのでしょうか」と言うので、決まり通りの相場を答えた。その時の決まりでは、「仲間相場の6割から7割」が目安だ。転倒で売られている価格からなら5,6割で、これは処分するのに要する標準的な期間を減じたものだ。三年間「寝てしまう」のであれば、その間の金利分が減じられるのは当たり前だ。ただ業者ではないから、場所代や人件費などは考慮しなくとも良かったから、その分、買い入れが可能な価格が高くなる。

 金融機関の担当者は返答を聞くと、すぐに「お売りします」と言ったが、、こちらもまさかあの量とは思わなかった。和紙ロールや麻袋入りの銀貨が大量に持ち込まれた。

 その先は悪夢のようだったので、ここでは割愛する。

 だが、その時にオマケ同然に青銅貨を安価で買い取った。総て「竜」青銅貨だ。さすがに大正昭和の黄銅やアルミ黄銅にはさすがに値は付かない。商品として成り立たぬし、クズ金属としても流れない。

 結局、銀貨を地金相場で売り、青銅貨の方は梱包を解かずに十年くらい捨て置いた。この当時、買い取った品(コインだけでなく資料や骨董も)の多くは郷里の倉庫に送り、これが部屋二つ分くらいに達したので、買い入れ自体を中止した。

 その後、何年も経ってから、青銅貨のことを思い出し、改めて開けて見たのだが、大半が殆ど使われていない品だった。

 当たり前だ。恐らくは旧大蔵省から国立銀行に回り、そこから支店なり別の金融機関に入ったまま時代を経た品だ。流通など殆どしていない。

 

 さて、これからが本題だ。

 難しいのは、流通していないからと言って、「未使用」と見なされるわけではないことだ。言葉の意味ではほとんど「未使用」状態なのだが、青銅貨はすぐに変色するし、劣化もする、使ったかどうかだけが判断の基準ではない。

 紙幣の「未使用」札も、折り目の無いピン札なだけではダメで、過度がきちんと立っていなくてはならない。この場合、昔、Oコインのオバサンは「四角のひとつに指を押し当てて、ほんの少し尖りが丸くなっただけでも、完全未使用では無くなる」と言っていた。

 

 長くなったので、話をはしょるが、青銅貨の状態が割合良かったので、試しに売りに出してみることにした。色んな会合で、数枚のサンプルを盆回しに出したり、入札に「傷の少ないきれいな品」として出品した。特に「未使用」などの能書きはなし。

 それまでの交流経験から、プレス貨幣の愛好家は状態に病的にこだわるし、細かく細分するきらいがある。また客観性でなく、印象で判断する。

 もちろん、ここは悪口のつもりではなく、そういう性向があるというだけなので念の為。そもそも、コインを集める者は総て「手の上の小さな違い」に心を奪われる性癖があり、これはよく言えば繊細で、悪く言えばみみっちい。

 例えて言えば、「一日中、アリの行動を見ている」人をイメージすればよい。

 

 話を戻すと、青銅貨は銀貨の欠損をだいぶ埋めてくれたが、この時に整理しやすくなるように、ホルダーに入れ、それをブックに差していた。

 これが大間違いで、半年もしないうちに表面の劣化が始まった。

 ビニールやプラスティックケースの多くは、硫化もしくは塩化化合物を含んでいるから、これと銅が化学反応し、色変が起きてしまったわけだ。

 結果は画像の通りで、傷が殆ど無いのに、商品性が損なわれてしまった。

 ま、レーザーで塩化、硫化化合物を還元する手法が開発されているようだから、もう何年かすれば、青銅貨の色を元に戻すのは何でもないことになるかもしれぬ。

 

 ちなみに、コレクターの性癖について、もうひとつ発見したことがある。

 集まりで回覧に供した時に、「状態がどうの」「良いの悪いの」を口にした者はいたが、「これがどこから出たか」「何故この状態なのか」と訊いて来た者は、たった一人だった。百人単位の収集家で、たった一人。

 コレクターの九割以上は「分類を志向する」ということがこれで分かる。

 藁差しや封印された貨幣を、即座に解いて中を改めようとする者が殆どだ。

 私の方は「何故これが金庫に眠っていたか」「どういう扱いだったか」「旧大蔵省から地方銀行に渡るまでの流れと具体的な方法」について、延々と語る準備が出来ていたので、すっかり空振りだった。 

 「分類」ではなく、「どう作ったか」「流通したか」に関心を持つ者は、貨幣そのものではなく「人間の所為(振る舞い)」に関心の重きを置く。

 どちらかが正しいと言うのではなく、「そもそも観点が違う」というだけのこと。

 収集自体はあくまで道楽なのだから、己の好きなようにやればいいだけの話ではある。

 

注記)一発殴り書きで、推敲も校正もしないから各所に不首尾はあると思う。