日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭その他」 その7)彩色寛永

◎古貨幣迷宮事件簿 「未勘銭その他」 その7)彩色寛永

 寛永銭に赤や黄色の彩色を施したものを見たことがあると思うが、収集家は反射的に「上棟銭だよ」と答えると思う。古銭書には、そう書いてある。

 だが、私はいつも「オメーはそれを確かめてから言ってんのか?」と思っていた。

 「上棟式の際に彩色銭を撒いた」だと。それは一体どこの風習なのか。

 江戸期には地方が各々今より独立していたから、江戸や大阪の文化的風習が地方でも通用すると思ったら大間違いだ。同じ藩の中でも、支藩扱いの私領では、全体藩とは違う制度を持っていたりする。 

 分かりやすい例を挙げると、例えば「恵方巻」だ。節分の時期になると、盛んにこれを喧伝するが、西日本ではあるのかもしれんが、東日本では「恵方巻」の風習は無い。

 地域文化を否定するつもりは毛頭ないが、自地域に根付いていないものを「やるのが普通」みたいに言われても閉口するだけだ。太巻きはゆっくり味わって食べる方が美味しいし、小分けにして仏壇に供える方がご功徳がある。

 一概に他人の価値観を否定できないから、東日本の者は発言を控えていると思うが、企業の販促活動にそそのかされて、自地域に存在しない風習には従うつもりはない。

 子どもたちには「食べ物は大切に、ゆっくり味わって食べること」と言うつもり。

 ハロウィーンに騒ぎたい者は勝手にすればよいが、カトリックの妻は「日本のお盆と同じ意味だから、バカ騒ぎは本来の主旨とは違う」と批判する。もちろん、自分たちの価値観を押しつけたりはしないが、押し付けられるのもご免だ。

 「大晦日なまはげの日です。お父さんは必ずお面を用意しましょう」

 西日本の人はこれに従って、なまはげを「やろう」「やらねば」と思うのか?

 (「なまはげ」を貶める意図ではないので念のため。地域に根付かぬものの表面だけを真似るのは、文化剽窃に近いという主旨だ。)

 よって恵方巻はお断り。あとその時期にスーパーが太巻きの値段を上げるのも好かん。こっちは東日本に住んでいるわけなので、全国キャンペーンはやめてくれ。

 

 で、本題に戻ると、少なくとも北奥地方では、神社寺社の上棟式に「彩色銭を撒いた」という記録は見当たらない。聞いたことも無い。

 一般の家の上棟式で、「餅を撒く」ことはある。また、餅の他に「銭を撒く」こともあるが、これは普通に使えるお金だ。彩色銭ではない。

 そこで、「一体、それが上棟銭だなんて、どこの話をしているのか」ということになる。識者は「ドコソレの神社では」と語るかもしれぬが、この質問は罠だ。質問の意図は具体的な神社や寺を引き出すことが狙いだ。それを聞いたところで、「それが全国に通用すると思っているのか」と否定できる。

 

 画像イは、鹿角地方で出た品で、百年は開けられなかった銭箱の中に入っていた。

 こよりを結んであるが、それも箱に入っていた時のままにしてある。全体が黄色もしくは金色なので、昔の人が「これは何だろ?」と結んだようだ。古銭収集家が「気になる品」にタグをつけるのと同じ。

 なぜ彩色したかは、この場合は判断材料が無く、「分からない」。

 画像ロは、岩手県の盛岡周辺で時折まとまって出た片面彩色寛永で、矢巾から滝沢くらいの範囲で散見される例だ。

 盛岡の「力」さんという古道具屋に、打刻銭(極印銭)と彩色寛永が百枚差で置いてあったので、両方を求めたのだが、その時のものだ。店主のK岸さんは「いずれもこの地方で作られたもの」と言っていた。「丸十」や「丸に横引」などの打刻銭は上棟銭ではなく、木戸銭に近い性質のものだったようだ。

 一方、彩色銭の方は、「一代で財を成した三州屋という商人が、夫婦で輿に乗って城下を練り歩き、彩色銭を何千何万と撒いた」という記録がある(新渡戸仙岳『銭貨につきて』)。これが現物かどうかは分からぬが、存在数から見て符号はしている。

 表側の片面だけで、さっと染料を振っただけのつくりだ。

 

 画像ハは、北奥の貨幣収集家なら、すぐに候補が五つくらい思い浮かぶと思う。

 朱漆を両面に塗っており、鋲を打ち込んだ穴がある。もちろん、額に打ち込んで神社に奉納する祈願用の銭だ。見えぬ筈の裏面にも朱を入れるところが、本格的な「厭勝(まじない)銭」で、額には百枚の寛永銭を打ち込む。山岳信仰の系譜を持つ神社に見られる例で、奥州で有名な神社は五山くらい。

 これは十和田神社の奉納額で、元々は額に打ち付けた状態で出た品だ。

 記録を紐解けば出て来る筈だが、明治期以後に幾度か、銭の類を回収して整理しており、境内の柱や梁の額だけでなく、十和田湖に沈んでいた祈願銭も何万枚の桁で引き上げられた。

 たまに「収集家は、『手の上の金屑』しか見ようとしない好事家だ」と揶揄するが、私自身がそういう愚かな好事家だった。

 この品は十和田の買い出しと交流があった際に、額に銭を打ち付けた状態で譲って貰ったのだが、母銭が混じっていたので、鋲を抜き銭を検めてしまった。

 「ウマシカ丸出し」とはこのことで、額には「何の誰それが祈願のため、何年何月に奉納した」ものだと記してあったのに、外してしまったから、その記録が消えた。

 この先は、ただの「上棟銭」扱いになってしまう。おまけに「上棟銭」は事実とはかけ離れている。

 資料的な意味を損ねたのだが、額から外したことで、「きちんと裏面にも朱漆を塗ってある」ことが分かった。見える場所だけではないのは、信仰があるからということ。

 

 その8)は「研ぎ落とし寛永」だが、時間が来たので、これは次回に回す。

 (さらに続く。)