日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎少しずつ悪縁を下ろす

◎少しずつ悪縁を下ろす

 背後に「黒いひと」らしき影が出てから数え、三日目と四日目の展開になる。

 木曜は通院日だったが、朝から体調が悪く、左側の首筋が重く痛い。

 治療中には足がつるし、終わった後も真っ直ぐに歩けぬほどだ。お腹の具合も悪く、幾度もトイレに行かされる始末。結局、終日、家で横になっていた。

 夕食後に夜半まで眠ったが、午前三時頃に目覚めた。何か悪夢を観ていたので、「癒し水」を供え、再び眠った。今度は幾らか夢の内容がましになり、愛らしい赤ちゃんの夢を観た。

 ざっとこんな夢だ。

 戦地の地下塹壕に人々を避難させたが、その中に五歳くらいの男の子と一歳くらいの女児がいた。

 女児はほっぺがふくよかで可愛らしい。

 私はこの赤ちゃんが砲弾で傷つけられる姿を想像し、「そんな目には遭わさせまい」と心に誓う。

 そんな風な内容だったが、イメージがもっとも強かったのは「赤ちゃんの柔らかな頬」だった。

 次に目覚めた時に、最初に浮かんだのがその「赤ちゃん」だから、状況は少し好転している。

 それなら、手を打ち始める頃合いだ。

 

 仮に私が感じた通り、あの影が「黒いひと」なら、周囲に幽霊が固まっている筈だから、少しずつ下ろす必要がある。

 そこで今日は午前のうちから神社に参拝することにした。

 もしかすると、私の時間は残り少ないかもしれんから、これからは、過去に出さずに来たものも公開して、「あの世」が実在することを知らしめようと思う。

 ハードディスクが破損してしまい、過去の未公開の画像などは使えなくなった。

 それなら、また撮影すればよいこと。

 世間の「ホラー」「怪談」の文脈で読まれると、実態とはかけ離れるので、影響の強そうなものは公開せずに来たのだが、今後は可能な限りそのまま出す方針で行こうと思う。

 もちろん、興味本位に拡散されることのなさそうな程度のものだ。

 

 今回は撮影手順通りに進めた。

 まず自身の立ち位置を確認することからだが、後ろには手水場があり、前には社殿の入り口が見えている。この入り口のガラスに私自身を映し、それを撮影する。この時には、必ず日光を全身で浴びることが必要だ。今の季節であれば、最も望ましいのは午後二時から三時の間だが、快晴であれば、少しずれてもよい。この日は十一時頃だった。

 

 神社や寺社では、神職や僧職が毎日祈祷し、参拝客が訪れて、祈願やご供養をする。このため、「念」が集まり、これが「気」のながれを生み出すようで、境内の中に眼には見えぬ煙がたなびく。

 カメラで撮影すると、この煙が映ることがあるのだが、この日の画像にもそれが薄らと写っている。

 左下から右上に煙が走っているが、これがそうだ。

 また、私の体の周りをぐるぐる巻きにするように煙が回っている。これはいつものことで、もっとはっきりした白煙もしくは白蛇のことがある。

 私はあの世と関りを持ちやすい性質の者(神霊体)なので、煙玉や霧が頻繁に写る。

 ただ、今日は白煙の他に「黒い煙」も見えている。

 私は屋外に立ち、頭上には日差しを遮る木々が無いから、胴に蔭が出来るのは理屈に合わない。

 なお、左右の腕の影は腕の真下に見えているので、それではない。

 ここまでが赤外線撮影による。

 

 次に、スマホで撮影した。

 最初の画像では、強い日光反射により私の顔が見え難く変わったが、よく見ると、複数の顔が出ている。横向きの子どもや背後から覗き見る女、下側には別の女だ。

  たまたまそう見えただけの場合もあるが、警戒は必要だ。甘く見て痛い経験をしたのは、一度や二度ではない。

 頸の下には、煙が二重に回っている。

 

 二枚目には、きちんとサングラスの顔が写っているのだが、しかし、左手のみ三本見えている。

 社殿の入り口のガラス戸は前後二枚あるので、角度によっては二重に映ることがあるわけだが、三本では多過ぎる。これは指の数を数えてみれば確認出来る。

 左後ろは、手水場の上にあたるが、ここには白い着物の襟から膝元くらいまでがあるように見える。

 この位置は、冒頭の画像で示した通り、背後にまったく何もない空間だ。ま、この点についてははっきりしないのだが、私としては、「白衣の巫女」であって欲しいと思う。

 もしこれが人影なら、「左手を上げて、左側の方向を指差している」が、それがどういう意味なのかは分からない。普段は顔の表情が見えるのだが、この日は確認出来ぬので、これが「巫女」かどうかも不確かだ。

 

 神殿では、日頃の加護のお礼を述べ、破魔を祈願した。

 帰宅してから、もう一度、「癒し水」を供え、体の周囲を「神刀」で切った。

 それから、画像の処理をしていたが、気が付くと、首の痛みや重さが消えていた。

 

 かなり昔、あるテレビ番組で心霊特集を観たことがある。

 怪異現象を訴える相談者の前に、自称「霊能者」を三人ならばせ、各々に霊視させるという趣向だった。

 その後、その霊能者三人に、各々が見たものを話させたが、それぞれがまったく別のことを言った。

 ストーリーに接点がない。

 番組を制作した側は、「だから霊能力などいい加減なものだ」と言いたかったのかもしれん。「超常現象など思い込みに過ぎぬ」ということだ。

 三人の話すストーリー(「※※の障り」や「因果」など)は別々だが、しかし、「ご供養」や「お祓い」をせよという意見は同じだ。

 その時、私は彼らの語るストーリー自体にはあまり意味はないが、「ご供養を施して慰める」ことには意味があると思った。

 霊視は直感と想像や推測が基盤となっている。所詮その程度のものなら、「因果」そのものではなく、「慰める」姿勢の方が大切なことだろう。

 霊能者が何を見取ったにせよ、その内容とは関わりなく「心を込めて慰める」ことで、結果的に怪異現象が鎮まることはある。

 あるいは、真言を唱え、お経を読むことで、「念」の圧力を加え、排除する方法でも同じことだが、こちらの場合の効果は一時的なものだ。力で排除しても、時間が経てば戻って来る。

 

 要するに、「これが何か」などは、想像するしか方法が無いのだから、そこにこだわるよりも、「慰め、癒す」ことで丁重にお引き取り願った方が早い。

 「本当にそれがいのかどうか」「どういう者なのか」を追究するよりも、それが「いる」ことを前提に、サクサクと浄化の手を打ち出した方が、結果的に早期に収束する。

 「見間違い」「判断違い」なら、結果的に何も起きぬが、たかを括って見過ごし、いざしくじった暁には、もはや取り返しがつかない。

 

 さて、首の痛さや体の重さは取れたが、まだ全然厳しい状況にある。

 何せ、私の胴体は「黒くて太い腕」にしっかりと羽交い絞めにされている。

 ま、己を信じ、巫女の存在を信じることが大切だから、この世とあの世の共闘で対処しようと思う。

 

追記)手水場のところには何も無いが、何故か先が見えず、着物のようなものが見える。

 だが、判断はどうであれ、一瞬で首痛が治ったのは事実だ。

 やはり「上手に乗りこなせればそれでよい」と思う。

 変化がはっきりしているので、逆にそのことに驚く。