日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎すぐ目の前にある危機

◎すぐ目の前にある危機

 この日は通院日。ベッドに横になっていると、昼頃に向かい側左の患者の容態が急変し、医師たちが飛んで来た。搬送が間に合わぬので、AEDみたいな装置が運び込まれ、ピコピコと音を立て始める。

 この病棟は正直な話、「終末病棟」みたいなところだから、時々、ベッドごと運び出される患者がいる。患者仲間のガラモンさんも、急に血圧が下がり、一気に心停止まで届いた。この人は運が強く、そこから二か月で入院病棟から戻って来たが、極めてレアなケースだ。多くの患者は、いざ搬出されると、もはや二度と戻っては来ない。

 七十台でここに来れば、先は長くない。半年一年と持ちこたえられているのは、六十台の前半まで。

 

 このところ、私も調子がイマイチで、血圧が下がる。80-90、時には60に急降下することがあるので、治療方法が緩和された。

 ま、「黒いひと」らしき影が傍に現れているから、危機はすぐ目の前にある。

 おどろおどろしい幽霊よりも、得体の知れぬ「黒いひと」の方がはるかに怖ろしい。

 感情を持たぬし、「問答無用」の雰囲気を発散させている。

 嫌なのは、「あの世」について、あまり知識や経験の無い医師や看護師の中にも、死にゆく患者の背後に「黒いひと」を見たことがある者がいることだ。

 予備知識なしに確認しているのなら、それは想像や空想ではなく、「何かを実際に見た」という意味だ。

 

 「お迎え」には複数のパターンがあり、そのひとつ目は「寄り憑きが急に増える」現象だ。身の回りに「この世ならぬ者」の気配が現れる。誰もいない筈の部屋でガタゴトと音がしたり、実際に物が落ちる。人影も目にする。

 次はその中に「自分そっくりな姿の者」が混じることだ。体型や服装など、自分に似た風体をした者が周囲の者や、もしくは人影の中に混じる。

 意味はドッペルゲンガーと同じで、「程なき死」を予告するものだ。私なりの解釈では、「相手の死を予見し、その魂と同化し手に入れようとする者が寄って来る」というものになる。自我の存続をはかるために、まだ新しい死者と同化合体を試みる。

 三つめは「直接、連れ去りに来る」。これは私自身も会ったことがあるが、ごく普通の人間の姿をして、目の前に現れる。これが一般に言う「お迎え」だ。

 お迎えの者は、朧気でも怖ろし気でも無く、どこにでもいるごく普通の人の姿をしている。だが、人間の持つ温かみがまったくなく、周囲の景色(光)を歪ませるから、異質さが半端ない。

 怪談やホラーで語られる幽霊の恐さとは、まったく別の怖ろしさがある。

 四つ目が「黒いひと」だ。三つ目までは、当人のみに関係しており、その人だけが察知する場合があるが、「黒いひと」は「誰の目にも見える」という特徴がある。

 となると、一番に「ヤバい」のは「黒いひと」で、これが現れれば、最終段階が近いということだろう。

 「黒いひと」を怖れ、一番に忌避するのは、そういう理由になる。

 問題は、幽霊はある程度「浄化」が可能だが、同じやり方が「黒いひと」に通じるかどうかが不透明なことだ。「黒いひと」は人間らしさを持たぬ者で、言葉を発することも無いので、対話が成り立たない。

 人の姿をした「お迎え」であれば、対話(交渉)で「死期を先延ばしにしてもらう」ケースがあるのだが、これはたぶん、「黒いひと」には通じない。

 ここから先は未経験の領域だから、試行錯誤で進めるしかない。そして、もししくじると、「やり直し」はなく、そのままあの世に旅立つ。

 

 ま、ノイズを減らし、照準を「黒いひと」だけに定めた方がやりやすいから、とにかく、他の雑霊の「寄り憑き」を解き放つことが先決だと思う。

 毎日、朝昼晩と祈祷と浄化を繰返し、無用の者を排除する。

 要は、今後はご供養と参詣参拝の日々が続くということ。

 

 さて、昨日は「巫女が左の方向を指し示している」ような場面が画像に残った。

 もちろん、ただの「気のせい」であるかもしれんことは承知している。

 この先の対処方針はリスク回避に関する合理的判断で、具体的に何をどうするかは単純に確率論で導かれる(省略)。

 ま、結論は「いることを前提に祓い清める」ということだ。「気のせい」ならそもそも何も起きぬし、そうでなければ、対処によって悪影響を軽減できるかもしれぬ。

 御託はさておき、この日も通院の帰りに、神社に参拝した。

 当分はこれが毎日のルーティンになる。

 

 指先の方角には鳥居があり、その先は急階段だ。

 ちなみに、この階段では頻繁に煙玉が画像に写る。もちろん、自然現象で、湿気が多い時に、崖の斜面で空気圧が変わり、その影響で蒸気玉が出るのだと思う。

 不思議な画像が撮影したければ、雨の後に、風が吹き寄せる崖の下で撮影してみると良い。白い煙玉は、色んな要因で生じる物理的現象だ。

 ともあれ、上から西の方角を撮影した。

 車で開くと、あんれまあ、車道の中に袴の女性が立っている。

 昨日の出来事が出来事だけに、少なからずドキッとした。

 「だが、今は三月だ。女性が羽織袴を見に着ける季節だから、別に何でもなく、たまたまだ」

 普通はそう考えてスルーする。

 「しかし、ひとは安易で、自分にとって都合の良い解釈があると、すぐにそれに飛びつくものだ」

 物事は総て疑ってかかれ。

 袴の卒業式なら、大学短大・専門学校だ。それなら、この市内もしくは近隣市町で、この日卒業式が開かれているということ。そしてそれはすぐに調べられる。

 で、検索すると、埼玉西部の卒業式はいずれも中旬以上で、初旬にはない。

 ここで女性の姿に戻ると、帯が臍の付近で、女性が袴を締める位置とは違う。

 通常は「胸の下」。よって、この女性は羽織袴ではなく「道着」を見に着けている。

 近くに武徳殿(道場)があるから、薙刀などの稽古をする人かも知れぬ。この人はセカンドバッグの類を持ってはいないから、外出の途中ではない。

 だが、袖が長いので、武道用の道着ではなさそう。

 ま、神社の近くにいるわけなので、この神社の巫女さまがふとした用事で外出したのかもしれん。そのままの装束で出るとは思えぬが、可能性はゼロではない。

 

 と、あれこれ思索を経た結果、ひとまずの結論は「何らかの事情で着物を着た女性」に落ち着いた。

 理由は割合簡単で、「もし巫女で、この世の者でないなら、私の相棒」で、この私の相棒は全身白装束だ。それに、遠めにさりげなく示す必要が無く、いつも堂々と姿を現す。ガラス面に私自身を映した時に、目視ではっきりと見えることがある。(ちなみに、そういう時には何故か画像には残らない。)

 時々、「顔がコワイ」と記すのは、それを直接見ているからだ。

 ちなみに、次に同じ場所で撮影し、そこに再び同じ女性が写れば、それはかなりの確率で「人間ではない」ということになる。卒業式以外に女性が袴を着るケースはレアだし、巫女はその姿のまま出歩かない。

 

 結局は「たまたま」だった可能性が高いのだが、きちんと検証することが重要だ。

 あの世現象は、肯定する者は盲目的に肯定するし、否定する者はものを考えずに「科学的でない」と否定する。何が「科学的な思考方法」なのかをろくに学んでいないくせに、「科学的」の意味が分かっているのか?

 ま、私の見聞きしているものが事実であり、現実だとすると、それを簡単に証明するのは「ほど近い私の死」だと思う。

 「黒いひとが寄り憑いているから、死が近いかもしれん」と言っている者が、実際に突然の死に見舞われれば、それは「本当だった」ということだ。

 だが、他人がどう理解するかなど、どうでもよい。

 あの世について、どう向き合おうが、あるいは向き合わなかろうが、誰でも死ぬし、死ねばその者に現実として降り掛かる。

 眼を閉じ、耳を塞ぐ者に語り聞かせようとすることほど不毛なものはない。

 己を救い上げるのは、結局は己自身でしかない。 

 

 ひとつだけ教訓があるとすれば、「黒いひとの影には気を付けろ」ということ。

 自分自身や親しい人の周りに、個の影が現れたら、現状に関わらず、すぐ目の前に危機が迫っている。

 

 なお、私自身については、歴然と改善されている。

 わずか数日のことで、油断は禁物だが、一気に持って行かれることは無さそうだ。

 何事もこじれる前に手を打つことが重要だ。