日刊早坂ノボル新聞

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◎誰の手でもない  (「黒い女」再考)

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令和三年二月二十八日撮影

誰の手でもない  (「黒い女」再考)

 毎年、冬になると心臓の具合が悪く、「もはやこれまでか」と思うのだが、今年は例年と違い、それが確信に近いものとなりつつある。気配がいつもと違うからだ。

 今はあの世の様子を覗き見て、自身の置かれた状態を確かめることが出来なくなっている。自分自身を目視することは出来ぬから、ガラス映像が頼りなのだが、あまり写真に写らなくなって来たのだ。

 大半が妄想の域に留まり、「これは有り得ない」と確信できるものが少ない。まるで先方が気配を消しているかのよう。

 

 昨日、フェイスブックで、たまたま一年前の画像が開いた。(FBは自動的に過去の記事を時々振り返らせる。)

 画像はいつもの神社の神殿前で、この時、私の周囲には参拝客がいなかったのだが、画像の隅に黒いい人影が残っていた。明らかに女性の後ろ姿だ。

 それまでも時々、黒い人影が映り込むようになっていたが、女の姿はこれが初めてだ。

 この黒い人影は説明のつかぬことがほとんどなので、私は「黒いひと」と呼んでいる。

 世間の状況を調べてみると、「ひとの死期が迫った時にその人の周囲に黒い人影が出るようになる」とされているようだ。要は死神と意味は同じだ。

 同じようなアイテムを調べてみると、「体に妙な白い玉が出る」「幽霊が時々近くに現れる」などの兆候が書かれていたりするが、そんなのは私の場合は昔からだ。

 「黒いひとが出る」は、あの世への三丁目くらいの段階で、多くの人はこれを短期間で経験するようだ。説明のつかぬ現象が半年一年の間に出るようになり、当人は死んでしまう。

 私はここに至るまで何年もかかっているが、それは「常にあの世の様子に気を配り、疑わしき時には相手をけん制する」手立てを打って来たからだと思う。

 いつも書くことだが、それが「客観的にその存在を皆が認めるかどうか」はどうでもよい。生き死にが関わるのは当人だけで、他の者にとっては単なる興味本位の話だ。

 仮にそれが実体のない妄想であっても、当人に「死期が近づいている」状況には変わりない。

 体のケアは医療がするが、心と魂の手当は自らの手で行わねばならない。

 信仰を拠り所にするのもよいが、それも本人の心の中の話だ。他者により祈祷を授けて貰おうが、ほとんど効果はない。自己免疫のスイッチは当人の心の中だけにある。

 

 ここで画像の方に話を戻すと、外の人影については、私自身も疑いを持っていた。ひとが素早く移動すると、シェイプが流れ、ぼやけて写ることがあるからだ。

 だが、その場合は動く先の方はぶれずに後方に影が流れる。

 また、振り返って神殿の前方を撮影したのだが、室内にも同じ女の黒影が歩いていた。

 こちらは半透明で、向こう側の壁が透けて見えるから、疑いの余地はない。説明の出来ぬ人影だ。

 恐らくは、自分が「見られた」ことを悟ったので、再び私の前に立ったのだ。

 

 こちらの画像ではもう一つ腑に落ちぬ部分がある。

 「黒い女」のすぐ手前に女性の客が座っているのだが、両手を頭上に上げて重ねている。恐らくは片手を別の手で揉んでいるのだが、手の位置がおかしい。

 検証してみると、マニキュアの指が見えていることもあり、一応は「右手の甲側の上から左手が押さえている」ように見える。

 だが、右手の小指は曲げているにせよ、薬指が最も長い指になってしまう。

 肘との繋がり方から見て、捕まれている方の手が左手のように見える。

 そうなると、「それを掴んでいる左手は誰の手か」ということになる。

 一年の間考えさせられたが、私はこれは「説明のつかぬ別人の手」だと思う。

 そもそも服の袖の色が、女性客の服とは違い、黒い色をしている。

 女性客の前に大人がいて(たぶん膝の上)、背中を女性客に向けるようにして手を重ねると、ちょうどこのような配置になる。黒い袖がほぼ直立している。

 

 昨年のある一時点から、あの世現象(人影や煙玉)が写真に写ることがめっきり減って来た。だが、禍々しい気配は逆に余計に感じるようになった。相手を特定出来ぬので、何ら手を打てずにいるのだが、そのことは私がさらにあの世に向かって前進していることを意味するのではないかと思う。

 手は尽くすが、抵抗が実らぬかもしれぬ。そこで、私に起きたことを、極力、記録に残すことにした。

 いつか息子が目を通し、自身の問題解決に役立てられると思うからだ。

 私には母が経験したのと同じことが起きているし、息子にも既にその兆しが表れている。

 いずれ息子も母や私が辿った道を歩むことになる。

 今の私は「そこに居ない筈の人影」を目視する機会が増えている。過去にして来たように「光の調整のためにガラスに映して眺める」必要がなくなって来た。

 

 死に至る足取りを緩められるのは、「黒いひと」の辺りまでだと思う。

 もし、説明のつかぬ事態が「時々起きる」ようになったら、直ちに手を打つことだ。

 死後の存在を信じるとか信じぬとかはどうでもよい。すぐに現実として現れるようになるが、その時は周囲の人は誰もそれを信じてくれない。早めに手を打てば、一年で尽きる命を五六年ほどもたせられるかもしれぬ。死期は幾らか遅らせることが出来るのだ。

 時機を逃すと、それこそジェットコースターで下るように死が近づいて来るし、その時はもはやどんな手を打っても止められない。

 

追記)手の重なりを説明する、唯一の物理的な説明は、「夫が前の席にいて、体を後ろに倒して女性客(妻)に寄り掛かり、妻の手に手を重ねている」という構図だけだ。

 だが、神職を前にして、これから祈祷を受けようとする時に、そんなだらけた姿勢を取るものがいるのかどうか。手は両方とも大人の手で、子どもではない。 

 

追記2)「黒いひと」は夕方や夜の方が識別しやすい。暗い中に黒だから見えぬようだが、幽霊は赤外線に反応するので(あるいは放っているので)周囲から浮き上がって見える。これは夜には気温が下がることとも関係している。

 幽霊が出るのは「夜の方が多い」と思いがちだが、実は認識しやすいだけで、昼にも同じように出ている。

「何かは分からぬが、気配がする」という時には「傍にいる」と思った方がよい。

 

追記3)黒い女の正体

 「黒い袖の手」は女性の左手を鷲掴みに掴んでいるが、よく見ると、女性の手が歪むほど食い込んでいる。

 この感じは「生きている者の念」で、要は生霊ではないかと思う。恨まれているわけだが、「手」も「黒い女」はこの女性に関係した者だ。

 ほんの些細なことから、他者がちょっとした恨みを抱き、本人の意思とは関係なく膨れ上がって実体化することがある。

 あえて私に見せるのは、私が「見える者」だからで、要は「気持ちを伝えたい」ということ。女性には軽い気持ちでひとの心を逆なでにする人がいるが、自身の振る舞いに気を付ける必要がある。

 または、ダンナに若い愛人がいて、「奥さんが死ねばいいのに」と思っていたりする場合があるから、よく状況を眺めることだ。

 怒って罵ったり叫んだりすると、余計に事態を悪くするから、冷静に対処することが必要だ。

 悪縁(悪霊や生霊)の障りは、本人に直接届くわけではなく、親や子、孫の方に及ぶ。「黒い女」の本人は、自分が念を飛ばしていることを知らぬ場合があるので、これに合う人がいないかどうか調べる必要がありそう。

 まずはダンナに見せるところから。

 黒い女が私に示すメッセージはそれだと思う。

 私に伝えて欲しかったのだろうが、状況を理解するまで一年掛かったし、この女性(室内の女性)が誰かを私は知らない。

 一番のリスクは「黒い女」が「(室内の女性が)いなくなればいいのに」のところで済まずに「苦しめてやる」という気持ちに進んだ時だ。

 その場合はもっと事態が悪化して、子どもの生死にも影響すると思う。

 何故に七五三で神社に来ている時に現れたのか。

 それは、この夫婦・家族が最も幸せそうな時だからということ。この夫婦が持っている幸福を「黒い女」は持たない。