日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「K村さんと真っ赤な俯永の思い出」

◎古貨幣迷宮事件簿 「K村さんと真っ赤な俯永の思い出」

 まずは古老の思い出話から。今や自分が古老の立場だ。

 

 二十年くらい前、K村さんが古銭会で、一枚の寛永当四銭を盆回しの回覧に供した。

 それを見ると、真っ赤で精微な俯永だった。すごくつくりがよい。

 見る側では、こんな思考が働く。

 「深川俯永」の赤いものと来れば、まずは文政銭。

 だが、これはいわゆる「南部赤銅」だ。それなら、密鋳写し。

 赤いので踏潰系統ではなく、浄法寺銭とかになる。

 ちなみに、時々出る真っ赤な浄法寺銅銭は、深川銭の写しであれば、ごく初期のもの。天保銭鋳造より前のものかもしれぬ。

 天保銭鋳造が終わった後にその銅材の残り物で作ったのは、仰寶銅鋳で地金が少しずれる。

 となると、評価は七千円とか一万円程度かな。

 

 だが、K村さんの発句はまるで違った。

 「発句十万円より」

 十万円?高すぎやしねえか?

 皆がそう思ったので、誰も言葉を発しない。感想すら言わない雰囲気になる。

 

 その後二十年ほど南部銭にこだわってきたのだが、今は何となくK村さんの腹が分かる。あれは売買ではなく、「問いかけ」だった。

 「お前らにこれが分かるのか?」という意味だ。

 残念だが、下値の高さに驚いて、詳細に検分することをしなかった。その時にDMSを持っていれば輪側の処理方法を観察出来ただろう。

 よって、ここから先は推察だ。

 

 今はK村さんの見立ての筋が分かる。

 浄法寺ではない真っ赤な俯永を、一体誰が作ったのか。

 出来自体は、ボウ鋳銭とは思えぬきれいなつくりだった。まるで母銭のよう。

 だが、文政でも浄法寺でもない。

 ここでK村さんの見解が分かる。

 「栗林座の銅母」、すなわち稟議銭だ。通用銭改造母を用いて写した品ではなく、正用の母銭から作った品で、たぶん、南部藩の役人が水戸の小梅藩邸を訪れた際に、何らかのかたちで俯永の母銭を手に入れていたのだろう。

 虎銭や大黒銭などは、当百銭の工期終了後に、残りの金属材で作ったものだが、つくりがそれらより丁寧だから、鉄銭を作り出す時に稟議した母銭型だ。

 一定の規格の母銭を千枚単位で揃える必要があり、これは同じ原母から数を増やした方が規格を揃えやすい。

 現物の検証したわけではないので、確たることは言えぬが、「十万円」の意図はそういう流れになる。他の道筋はない。

 それなら、発句は高いどころか、「ものすごく安い」ことになる。

 二十万スタートだよな。

 

 K村さんは、さぞ孤独感を覚えたと思う。

 誰一人、それが栗林銭だとは考えぬので、共通の解釈や理解など生まれようがない。

 昔気質の人で、自分から「これはこういう品で」とは言いださなかったから、余計に伝わらない。

 周りは皆ボケナスだ。何十年収集をやって来ても、「南部銭がどこがどうして南部銭なのか」の意味さえ分からない。

 大迫はむしろ難しいのだが、栗林や橋野、浄法寺の基本的な違いさえ分からない。

 ただ、位付けを見て、珍しくて自慢できそうだから、買い集めているだけ。

 地元の者でもそうなのだから、ほぼ収集界では分かる者がいないということだ。

 

 もっと研鑽を積んでいれば、K村さんと喧々諤々の議論が出来たろうに残念だ。

 それどころか、K村さんの江刺絵銭のコレクションをブックごと継承したのに、それをただバラバラに散逸させてしまった。一体何をやっていたのか。

 売却の途中で一枚ずつ撮影し、丹念に検分するから、次第に氏素性が見えて来る。
 K村さんの収集方法は、江刺の地元で得た品と東北各地の古銭会を通じて入手するというものだ。江戸や大阪のコイン屋さんで買った品ではない。

 絵銭は貨幣と違い流通性向が低いから、ウブ出しの絵銭類は、それがどこでどうやって作られたかの傍証になる。

 かつ、幕末明治初期の奥州では、戊辰戦争などの背景もあり、ばたばたと鋳銭計画を作り慌てて作業していたから、貨幣を作る銭座で絵銭も作った。

 この辺の理解があって、初めて「栗林俯永」を見通す鑑定眼が培われる。

 

 栗林座と浄法寺座は相互に交流があったから、銭種に共通点がある。

 背景を知らぬと、栗林のものを浄法寺に持って行き、それを摸鋳したと考える。

 藩が銭を密造していることを隠すために、意図的に「私鋳」と言う解釈が振り撒かれたわけだ。

 このため、浄法寺=密鋳のイメージがあるが、実情はそうではない。

 浄法寺鋳銭は楢山佐渡の肝いりの財政再建計画の柱のひとつだった。

 ま、ここからは書かない。

 K村さん流に、ただ他の者の見解を聞き、「こいつらは何も学んでいないうつけ者」と内心で思うだけにする。

 そもそも何故どうして「栗林銭」なのかの見方さえ知るまい。

 

 K村さんと同じことを、大型隆平通寶を見る視線で覚える。

 これを掘り出したのは一関のAさんで、買い出しでぽろんと出たものだった。

 私は一瞥で、それが栗林銭だと悟り、それならかなりの希少銭だと思った。

 何せ、水原正太郎「南部貨幣史」か、新渡戸仙岳の「南部藩銭譜」に拓が掲載されているだけ。幕末明治初期のものは殆ど無いが、それは銭座内での調度品だったということが要因だ。一千五百人規模の銭座出れば、百枚あれば足りる。

 

 一方、母銭っ「ぽい」品は、これまでオークションなどで出品事例がある。だが、違和感を覚えた者が多かったろう。つくりが銭座系の品とは違う。これは「絵銭」と言う解釈なら成り立つが、この仕様はこれまで「土瓶敷」「鉄瓶式」「釜(鍋)式」以外ではあり得ない。従前は古道具屋に行けば散見出来た。

 今も鉄瓶敷が作られており、要は「母銭様の釜敷は、明治大正以後に鉄瓶屋などでつかわれていた」ものである可能性が高い。

 少し残念だが、絵銭や調度品と言う解釈なら別に問題なし。

 

 要はこの調度品が骨董的価値を持つのは、「それが幕末明治初期のものであるかどうか」「どこで使われたか」の如何による。

 私はこれを百回見て、百回とも「栗林座のもの」と鑑定すると思う。

 なら製造は百枚以下で、現存数は数品だ。

 K村さん同様に、腹の内では「二十万」だろうと思うが、たぶん、誰も分からない話だ。

 これを見て、「どうやら栗林銭のようだ」と見立てたのは、地元の先輩のOさんだけ。ここはさすがだ。Oさんは南部銭収集の第一人者で、一瞥で判断がつく。

 これまで無反応であるところを見ると、他の人は「ボ※※※」か。

 (この辺も次第にK村さんのキツいレトリックに似て行く。)

 何せ明らかに南部のものではないのに「南部」と書く人が多いわけだが、ま、知っていても営業上の理由からそしているのかもしれん。

 称南部銭には「残念なお知らせ」が多々あり、それが原因で、私は南部銭の銭譜の作成に関わるのを止めた。知らぬ方が幸せだというケースもある。 

 

 晩年のK村さんは、じくじたる思いを抱えていたと思う。何せ、自分には分り切ったことを聞く耳、聞ける耳がどこにもなかった。

 今は同じ思いを私も味わっている。気が付いたら、砂漠の中にひとり。

 コレクションは、ただ持っているだけではダメで、これがどういう品かをきちんと説明出来て初めて本当の収集研究になる。

 品物をただ持つことは「発見した」「解明した」ことにはならない。瞼を開けて眺めて氏素性を確かめ、そこで初めて「発見した」と言える。

 新大陸の発見と同じで、コロンブスより前に人が行き来していたのに、何故「発見」になるかと言うと、周りの状況(世界情勢)が見えていたかどうかということに尽きる。要は意味を理解していたかどうかということだ。

 

 大型隆平通寶には鋳不足があるのだが、絵銭なら欠点として映るだろうが、釜敷ならまったく問題にならない。熱伝導を押さえるために、極限まで谷を薄く仕立てるためで、谷を抜いてある品も多い。

 このため、文字の端は必ず内輪に沂接するように作る。

  鉄製の場合は、卓に触れる部分を極力減らすために、裏に三点の支点を設けて、空気が入るようにする。これは「五徳」の延長線上にあると思えば分かりよい。 

 

 K村さんのケースと同じで、これが栗林製で、現存数枚なら、本来の下値は「十万」スタートなのだが、どうせ伝わりはしない。

 背盛や仰宝の母銭ですら、それが大迫製なのか橋野製なのかの区別がつかないのが南部銭収集の現状だ。ちなみに、橋野製が理解できたのは、一時期、原母を所有していたことがあったからだ。つくりの違いを見れば、その後は一目瞭然なった。

 

 南部銭の収集研究が進まぬのは、収集家が銭譜しか読まず、そこから外へは自分の所有品が希少であることを示す何がしかの資料までに留まるためだ。

 先輩の残した銭譜には、誤りや見解の不首尾が多々あるのに、それを有難がって眺めているから、何時まで経っても堂々巡りが続く。

 

 ちなみに、K村さんの没後に、あの俯永を入手した人がいると思うが、見せて貰えれば鑑定してあげます。五六千円で買った品が二十万に化けるかもしれん良い機会だ。

 もう収集は止めたので、「譲ってくれ」と申し出ることはないので、念のため。

 「忘れ物」を片付けようという意図による。

 

注記)早朝の出がけに記したので、殴り書き。配慮を一切しないのでその程度だと受け止めることです。