◎病棟日誌 悲喜交々 9/7 「そぼろ飯」
画像の病院めしは「鮭フライ」。他は野菜の和え物。量的にはたぶん普通の「五分の三人前」だと思うが、お腹は割と一杯になる。胃が小さくなっているわけだ。
待ち時間を減らす目的で、最近は九時前に病棟に入るのだが、それだと順番が最後の方。終わるのも遅くなり、私はいつも最後か、そのひとつ前だ。遅い昼食を摂るために食堂に行くが、やはりこの日もトレイがふたつだけ残っていた。この日は私が最後から二番目と言うこと。
食事を終えて出ようとすると、入れ替わりに「お茶屋のオバサン」が入って来た。最後の患者は、私かこの人だが、名前を知らない。
ただ、日焼けに特徴があり、眼の周囲だけ何となく日焼けが濃いような気がするから、「きっとお茶農家のひと」だと思っている。お茶農家のひとは、手足を完全に覆い、頭にはほっかむりをするが、それでも目の周囲は出ている。サングラスをすると、眼鏡型の日焼けをするから、たぶん、しない人の方が多い。手足は脚絆のような布で覆われているが、これはお茶の木には特有の虫がいるためだ。刺されると痛い。
コロナの時代に「他人と不必要な会話をしない」という申し合わせがあったので、今も患者同士で話すことは少ない。だが、さすがにひと言二言は会話を交わすようになった。
その「お茶屋のオバサン」(たぶん五十台半ば)はものの二三分で食堂から出て来た。
ひと月前くらいに「食が細い」と漏らしていたが、今もそうなのだな。これは腎臓以外にどこか内臓に不調の個所があるからだ。食欲が起きず、食事がまったく進まない。
「鮭とか鶏肉とか玉子とかでそぼろを作り置いて、ご飯に載せて、これに冷やした出汁を掛けると、割合食べられますよ」
半年で十二キロ痩せた時期があるが、その時に覚えた栄養の摂り方だ。冷や汁みたいにすると、案外食べられる。
すると、お茶屋のオバサンは、「いつもご飯に水を掛けて食べているのです。そぼろなら食べられるかもね。今日からやってみます」と答えた。
母の最期の日々を傍に居て過ごしたが、食べて貰うのに腐心した。おかゆも喉を通らない。
自分自身も経験したから、その気持ちがよく分かる。
今も食が細いきらいがあるが、「食事も仕事だと思う」ことにし、病院食は残さず食べることにした。だが、家ではいつもお茶漬けか玉子かけご飯みたいなやつで済ます。
最後にはジョークを入れなくてはならんから、オバサンにこう言った。
「ひと月前の言葉をきちんと覚えていて、助言をする患者は滅多にいない。これでご飯が食べられるようになったら、俺に惚れちゃいますよね」
弱っている者は「思いやり」に弱く、言葉を掛けられるともの凄く嬉しく感じる。ここは混ぜっ返しておくのが無難だ。いつ「この世を去ってしまう」か分からぬ境遇なので、「友だち」にもならぬ方がよい。お互い、明日も知れぬ立場だ。
エレベーターのところに行くと、数年間、隣のベッドにいた「アラ四十女子」と一緒になった。
こちらはさすがに名字だけは知っている。
女子は「手術をしてこんな風に」と左腕を見せた。血管を造成したのか、傷跡がくっきり。
この子は全身に手術痕がある。ごく若い時に、何かの市販薬を飲んだが、これが体に合わず、一発で腎不全になった。その後は内臓を順繰りに痛め、次々に手術を受けている。
可哀想に、二十台三十台のほとんどを通院・入院で過ごした。
若い時の時間をそうやって潰したせいか、私や師長が「若気の至り」でしでかした失敗談をすると、隣でケラケラ笑っていた。
「酔っぱらって、家まで歩いて帰る時にどうしても小便がしたくなったので、練馬区役所の玄関でした」
夜中の二時頃の話だが、一度すると、条件反射的に、区役所の前を通る度に小便がしたくなる。
それで、時々、玄関前の鉢植えのところで小便をした。
「でも、玄関には監視カメラがついている。俺の様子も守衛室では見ていたに違いない。よく捕まらなかったよな。後で自分のチン※が小さくてガードマンに見えなかったのかと落ち込んだ」
で、ゲッタゲタ。
今はこの女子は病棟の一番奥の窓際にいる。
「何だか、最近、すごく寂しいんです」
ま、周りは壁と窓だから、隣の会話さえ聞こえない。
「コロナが一段落して、せっかく話が出来るようになったのにね。ではどっちかの隣が空いたら、また隣に入ることにしよう。それで、オンラインゲームで勝負だな」
この子は病棟での時間をゲームでしのいでいる。私も色んな手立てをやり尽くし、残るはオンラインゲームだけ。
ずっと近くにいたから、もはやこの子は姪など親戚みたいな心持になっている。いずれは娘みたいな感覚になるかもしれん。
この子の外見は「満身創痍のタヌキ」なのだが、若い頃に人との摩擦を経験しなかったので、少女のまま大人になった。気立てが良いので、心根を知れば、誰でも気に入ると思う。
ひとはこころで生きている。
前に「ネットにアバターを作り、『薄幸の美少女患者(十八歳)』に化けて、世間の男どもを煙に巻いてやろうよ」と提案したことがあったが、チームを組んで実際にやるべきかもしれん。
「私は難病で、毎日外の景色を眺めて暮らしています」ってか。
実際には出来なかったことをアバターにやって貰うことで、生き続けるための張りが生まれる。