日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎通院日誌 11/22 「絶好調です」

通院日誌 11/22 「絶好調です」
 水曜日は循環器の通院日だった。
 久々に主治医に会い、近況を報告した。
 「心臓は絶好調ですね。不整脈もありませんでした。過去十年では一番調子がいいです。心臓だけですけどね」
 心電図なども「前回から変わっていない」だった。
 我々クラスの患者になると、「昨日と同じ今日」は有難い。
 今が人生最良の日だが、これは「これから体調が良くなることはない」という意味だ。
 たぶん、来年、息子が就職するまでは生きていると思う。
 息子の仕事が軌道に乗れば、安心してかくっと来るかもしれんが、来年まではあの手この手でやり過ごすつもり。
 眼や足は症状がキツくなっているが、動脈硬化が進行するのは当たり前だ。老化は止められない。
 特に問題ないので、次回は三月にして貰った。

 「最近は幽霊に抱き付かれることも少ないですが、おそらく近々に死ぬような気配が消えたってことでしょう」
 主治医には「当方がよく幽霊に会う」ことを話しているし、証拠の写真を持っていることも先方が承知しているので、普通にあの世の話が出来る。 
 次回は、これまでのお礼を兼ねて、「死後の存在はある」証拠を見せてあげようと思う。悪影響が生じる可能性があり、ネットには上げられぬ性質のものだ。科学者ならむしろ興味があるかもしれん。

 さて、今のクリニックから少し離れた駐車場に車を置いたのだが、そこに向かう途中で、元の病院の跡地の前を通った。
 十数年前、ここに入院し、九死に一生を得た。今の主治医もその時の執刀医だ。全然死ぬつもりはなかったが、冠状動脈が三本とも塞がっていたので、実際はかなりヤバかったそうだ。
 本人は平気な顔をしていたから、家族親族は、誰一人「コイツが死ぬ」とは思わなかったらしい。
 ま、術後の方がキツく、十年くらいはまともに歩けなかった。
 それがまだ生きているわけなので、生き死には分からない。

 病院が無くなったわけだが、「廃病院」とくればお決まりの人影がここにも出ていた。
 女の影が五階の窓からよく見下ろしていたが、その建物はもはやない。
 どうしたのだろうと思って、隣の事務棟の跡で写真を撮ったら、きちんと二階の窓に立っていた。
 普通の人は見えぬ筈だが、当方には「障子の陰に人がいる」時と同じ感じがする。息遣いというか、気配がぶんぶん出ている。
 何となく「嫌な印象を覚える」人は直感の秀でた人だが、そのまま嫌な感じが取れぬ場合は、対処の仕方を教える。

 帰路には自分を労うためにラーメンを食べた。血圧が下がり気味なので、少しラーメンを食べても良くなった。
 ま、二か月に一度くらいの話だ。

 

追記)直感の実際

 目の前二十センチの位置に障子があるとする。もちろん、向こう側は見えない。
 だが、その障子の陰に、こちら側と同じように人が立っていれば、その気配を感じ取れる人もいる。
 見えぬし聞こえなくとも、息遣いというか蠢きのようなものを感じるわけだ。
 これが直感であり、世間的に霊感と呼ぶものに同じ。

 障子に影が映っているから、とか、声が聞こえるから、などという話とは少し違う。 

 その場にいなくては分からぬ話なので、離れた場所にいる人に説明しても意味がない。障子の前に立たぬ人が、この感覚を理解できないのは当たり前だと思う。

 病院が移転した後、もはや旧病院は使われなくなり、空き家のまま四五年経過したが、その間、その病院の前を通ると、「誰かが上から見ている」感覚があった。
 四階か五階なので、消化器科か心臓病棟だと思う。今はその病院は壊され無くなったが、渡り廊下でこの事務棟と繋がっていた。
 営業している病院には、幽霊が出ることは「まずない」と言っても良い。墓地と病院はもっとも幽霊の出ない場所だ。人間にも幽霊にも「あまり長居したくない場所」という意識が働いているからだと思う。

 だが、営業を止めた病院跡には、何故か幽霊が集まって来る。
 駅など人だかりには寄って来るから、「かつて毎日人が集まっていた」ことに関係があるのかもしれんが、よく理屈が分からない。あの世の理屈はこの世で考えるものとは違う。