◎病棟日誌 悲喜交々 11/23 「お腹が一杯」
休日の木曜は通院日。
治療が終わり食堂に行くと、アラ四十女子がご飯を食べていた。
この子が先に終わり帰ろうとするところに、「調子はどう?」と挨拶した。
「まあまあですね。そちらは?」
「イマイチだね。あっちこっち順繰りに調子が悪くなる」
「きっと私が傍にいないから寂しいんでしょ」
「そうだよ。いずれまた隣になろう」
何年間か隣のベッドに居たから、気心が知れている。
もはや親戚の娘と同じ感覚だ。
帰路は神社に行くことにした。
前日以来、腹痛が取れぬから、セルフチェックが必要だと思ったのだ。
病院に行ったのだからそこで処方してもらうべきだが、何となく「医療の問題ではないだろうな」と思ったので言わなかった。
お腹の三か所くらいがじりじりと痛む。母は大腸がんで亡くなったが、もし同じ病気なら既に末期だと思う。
だが、そんな感じではない。
これは昨日、廃病院の前で女の視線を感じ取ってから始まったことだ。
理由が病気ではないのに、対症療法で薬をてんこ盛りされるのは困る。
治療は原因を突き止めてから、ということ。
ガラス映像を見ると、いつも通り、煙や煙玉が出ているが、深刻な状態ではなし。
私はこの世とあの世を跨いで立っているから、双方から身近な者であり、同時に異常な者でもある。この世の者から見れば、妄想癖の「ほとんどイカれた人」だと思う。
だが、生き残るためにこうなっている。
面白いことにガラス映像なりの効果が出ていて、周囲に人がいないことを確認してから撮影したのに、前に男性が写っていた。
ま、ガラス映像は、遠近が歪められることがあるから、後ろの人が大きく映ったのではないかと思う。
この男性は前後二枚のガラスに二重映りしているようだが、後ろには異常が出ている。
影はふたつで、左が女性で右が高齢の男性だ。この男性に所縁があるのかどうかは知らぬが、何か言いたいことがあるようだ。
女性は六十台、男性は七十台半ばだと思う。
ウェブ画像では見えない筈なので念のため。私自身は三メガサイズの画像を見ている。
私の方にも幾つか寄り添っているのだが、いずれも女性だ。
背後から手が出ており、私の胴を掴んでいる。
やはりこれだったか。
そこで「私には助けられぬので離れること」と命じてから、神殿の前に行き、日頃の感謝を伝えた。
こんなのは、殆どの人には伝わらぬ話なので、「イカれた者のたわ言」と思えばよろしい。
人は各々自分の人生を生きればよく、他者が参考にならぬ部分もある。私も今さら他人の心情を理解しようとは思わない。
結局は「自分なりに進む」しかない。
で、家の駐車場に車を入れる段になり、腹痛が消えていることに気付いた。理屈や説明を付ける必要はなく、状況が打開されればそれでよい。最優先すべきは直感だ。
眼の治療で駅に行ってから、この手のことがやたら多くなった。もはやお腹は一杯だ。