日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 悲喜交々11/30 「そろそろ俺たちの番」

病棟日誌 悲喜交々11/30 「そろそろ俺たちの番」
 木曜は通院日。病棟に入ろうとすると、同じ年に入棟したKさんが車椅子で診察に向かうところだった。治療前に別の診療科で診て貰うわけだ。
 Kさんは七年前くらいに入棟したが、その数か月後に私も入った。同じ年の入棟患者で今も生き残っているのは四人だけで、女性二人男性二人だ。
 「大丈夫ですか」と声を掛けると、「ちょっと足がダメでね」という返事だった。
 私と同じことがKさんにも起きているわけだ。
 腎不全になると、動脈効果が急速に進行するから末端の血の巡りが悪くなる。糖尿病でも下肢の血行が悪くなり、足を切られる人が出るわけだが、今の私は低血糖・低血圧で、専ら腎臓のせい。
 「そう言えば、生き残りはもう四人だけだな」と改めて気付く。
 次の年の入棟患者でも、残っているのは一人だけだ。
 ここで、「生き残り」の人の共通点を探すと、割合簡単だった。
 それは「腎不全になったのが五十台半ば」で、かなり早いということ。全員が心臓病経由で、手術や施術を受けている。
 ま、私は当時の医師に「重ねて治療をすると、造影剤が腎臓に悪影響を与える」と告知されていた。普通は薬物については「リスクがあります」と言うだけなので、割合、正直な医師だった。
 これが六十台後半とか、一定年齢より後に入棟する人になると、既往症が全身に及んだ後なのか、去るのも早い。
 車椅子に乗り、担架に乗り、病棟を去るまで半年もかからない。ま、元々の持病が原因になることの方が多いのだろうが、新幹線並みのスピードでこの世を去るから、病棟のあちこちから呻き声が聞こえる。
 八十を過ぎているなら、延命重視ではなく、苦痛軽減の方を優先しろよな。モルヒネを打ってやればいいのに、と心底から思う。

 ベッドに横になると、早速、栄養士のババさんがやってきた。
 岩手の同郷人なので、やはりその話になる。
 「盛岡のあの肉屋のYさんが店舗を新築したんですよ」
 「そこは父の知人で、子どもの頃はよく行きましたね」
 新店舗は半分が肉屋で、半分は焼き肉レストランになっているそうだ。今は橋際には無く、別の場所に移転したとのこと。
 代が替わり、店頭には五十台くらいの娘さん?が立っているらしい。
 そこで、「先代の頃に店主の妹さんが店頭にいたが、これがものスゴい美人で、子どもながらにドキドキした」という話をした。その人は、眼パッチリで、香るような色香を漂わせていた。
 その後数十年が経ち、今から十五年くらい前に店を訪れたことがあるが、その時にはさすがに人の好さそうなバーサンになっていた。
 実家に行き、私が父母に「あの美人の妹さんが今はおばちゃんになっていた」という話をすると、「あの人は若い頃美人で」と同意したので、当時は皆に噂されるほどの看板娘だったらしい。
 てな話を、調子に乗って二十分くらい話したが、ババさんがそのまま帰ろうとしたので、「あれあれ。栄養の話は良いのですか?」と呼び止めた。
 すると、ババさんは「別に今日は田舎の話をしに来ただけですからいいんです」と言って去って行った。
 さすがに「オイオイ」だ。油を売ってたのね。ま、不満ではないけど。

 治療が終わり、帰ろうとしたが、この日は調子が悪く、更衣室で椅子から立てなくなった。たまたま競馬好き看護師がこれを見て、「血圧を測りましょう」と器具を持って来た。
 計測すると、80-50なので、「これは少し休んで行かれた方がいいですよ」と、車椅子を運んで来た。
 車椅子に乗り、再び病棟に戻り、ベッドに二十分くらい横になった。
 血圧が110まで戻ったので、そこでまた更衣室に行き、着替えをして帰った。

 車に乗る段になり、「俺もKさんと同じ状態だ」と気付いた。
 手足の感覚が鈍いが、コロナ感染の後遺症なのか、腎不全の影響なのか、よく分からない。
 だが、私もKさんも、「同じように近づいている」のは確かだと実感した。そろそろ自分たちの番が来るわけだ。
 ここまでが数か月や半年で起きるなら、病棟で時々見掛けるように、泣き喚いてこの世を去ったりすることになるだろうが、七年も猶予期間があったので、いつ何が起きても慌てず騒がずに済むようになった。
 できれば、これまで予期して来たとおり、「道を歩いている時にパツンと」去りたいと思う。自分独りでトイレに行けなくなる前に起きてくれると助かる。
 母は亡くなる当日まで、自分の足でトイレに行っていたが、身体機能が限界に来ると、全身が弛緩してしまう。
 ま、最後は精神力勝負だわ。