◎病棟日誌 悲喜交々 12/21 「常に再起を心掛ける」
画像はこの日の病院めし。エビチリだが、塩分控えめで辛さも少ない。味が薄いのに、割と美味い。麻婆豆腐など中華系は味加減が良くて美味いのだが、食品配送会社から半製品で来る筈なのに、これはどういうわけなのか。ま、小学校の給食でも、時々、すごく美味いのが出るというから、配食関係でも得手不得手があるのだろう。
自分で作る時には、とかくコテコテと味を作ろうとしたり、辛くしすぎたりするが、あっさりと素材の味を前面に出す方が美味くなる。給食ひとつでも勉強になる。
毎日セージを燻しているが、瞬く間に足が改善に向かって来た。足半分が紫色になったのも、わずか一日での出来事だったが、いざ改善に向かう時も早い。ま、前回の踵の傷の時には完治するまで二年掛かったので、今回もこれから半年一年掛かるとは思う。
だが、歩けるのであれば問題なし。
「両足を切られる」危機はひとまず去ったとは思うが、もちろん、ぬか喜びは禁物だ。
先輩患者のNさんはまだ帰って来ない。あちらも足を切断されずに戻って来られるのかどうか。
廃病院で「いない筈の女」の気配を感じたその夜に発症したわけだが、判断に迷っていれば、あっという間に持って行かれただろうと思う。リスクは「それがあることを前提に対処する」のが基本だ。歩かないかを考えているうちに時機を逸する。
もちろん、それも、過去の経験があるから迷いが少ないということでもある。
昨夜からようやく侍の話を書き始めた。
『花のごと』の最初の「天保飢饉」の話から再開したが、短い話を折り重ねて行くやり方なら続けられる。というか、依然として小一時間ずつしか座れぬので、これしか出来ない。
『鬼灯の城』のまだ最終章が残っている。ただ、最後は陰惨な結末だし(気が重くなる)、百枚以上を書かねばならない。まずは数本の短編を書いて体調を整えようと思う。眼が悪くなったり、足が腐ったりでまた四五か月の時間が飛んだが、こういうのは慣れるしかない。
打たれるのには慣れているから、「常に再起を心掛ける」気持ちを忘れぬことが大切だ。
ハンデがあることを嘆いても何も変わらぬし、ハンデなどあるのが当たり前だ。それを自覚出来る分まだまし。
恵まれている時には、そのことを自覚出来ず「自分は優れている」と思い込む。発想は逆にすべきで、順境の時には疑い、逆境の時には「やれる・立ち直れると信じる」ことが重要だ。
もっとも愚かなのは、他人のふりを見て、羨ましがったり、貶めたりすることだ。他人がどういう状況にあるかなどは、自分の生き方には関りが無い。己の眼で己を見ろ。
やるべきことを始めると、精神状態が落ち着く。
定年退職後も「週に二日でも三日でも仕事をすること」と言う勧めはこういうところから来る。仕事を辞めてのんびりすると、あっという間に人は老いる。半年のうちに心も外見も衰える。
ちなみに『鬼灯の城』の結末は事実をそのまま記すだけだ。
九戸一揆が平定され、数日後に、南部信直は釜沢館を急襲した。釜沢重清は剛の者で、北奥を二分する戦いの最中にも、己の考えを守り参戦しなかった。
そのことについて、「不参は反逆と同じ」を名目に、上方軍を後ろ盾にしながら、二千五百くらいの兵力で館を包囲した。
背後には蒲生氏郷ら上方軍が控えている。
南部信直は九戸攻略で学んだ計略をここで使った。
「素直に開城すれば許す」
もちろん、それが嘘だということを釜沢重清は分かっているから徹底抗戦に踏み切る。
そこで合戦の流儀に従い、信直は「まずは婦女子を外に逃れさせよ」と伝える。女や子ども、老人など非戦闘員は邪魔になるので、落ちて行くのを看過するのがしきたりだ。
だが、南部軍はこういう婦女子を捕まえ、皆殺しにした。
その後、南部軍は釜沢館に火を放ち、逃れ出て来る侍を皆殺しにした。館内には五百から七百人が残っていたが、全員が殺された。これは九戸城での顛末と同じ。
口を残すと、卑怯な手口が世間に洩れるので、口を封じるという意図による。
釜沢館は平山城なのだが、今は大半が畑になっている。
馬淵(渕)川の側は河岸段丘になっているのだが、崖の崩れた土には焼け土の痕が見える。「もしや四百年前に館が焼けた痕か」と思ってしまう。
釜沢重清は戦国末期にあり、治水や灌漑を率先して行ったが、「国の基本は生産力」だという考え方による。
天正年間に重清が築いた釜沢用水の水路跡が今なお残っており、変わらず今も田畑に水を供給している。
とまあ、今回もまた半年間
追記)病院めしのパイナップルが花輪形だ。これはヴェトナム人研修生の計らいによる。こういう「ほんのちょっとした気遣いで、心が明るくなる」ことに学ばされる。