日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎十二月のトラウマ

十二月のトラウマ
 毎年、十二月が来ると子どもの頃を思い出す。
 実家は山家の萬屋で、食品を商っていたが、それとは別に黒豆を取り纏めて東京の業者に売る商売をしていた。
 岩手の中央で栽培される黒豆は「雁食」という品種で、皺が寄っているので汁を吸いやすく、正月のおせち料理によく合った。
 十二月はそれを取り纏める季節で、農家から買い集めた雁食や青豆を規格通りに袋詰めした上で発送した。実家の最大の商売はこれで、最も多い年には「貨車(貨物列車)六両分」送ったそうだ。総額では何億円かに上る。

 小学生の時から、この黒豆の発送業務に駆り出されていたが、これがしんどい。雁食が六十キロ、青豆が四十キロの麻袋で、封印するとこれをトラックに運び積み上げる。
 持ち上げるにはコツがあり、そのコツを覚えると、小学生でも地面に水平には運ぶことが出来る。だが、トラックの荷台に積むのは無理で、手前で大人に任せた。
 中学生以降は体が出来て来るので、荷台に乗せるところまでやれるようになった。
 学校から帰ると、九時か十時頃まで、黒豆を担いだが、高校生くらいになると、毎日百俵くらいを荷台に積んだので、筋肉が凝ってカチコチになった。その日の作業が終わり、風呂に入って食事をすると、もはや十一時だ。それから勉強だから、本当にキツかった。六十キロの俵を百俵担ぎ上げた後で、机に座ることを考えたら容易に想像がつくと思う。
 十二月は定期試験があるし、模試もある。
 ちょっとハンデがキツすぎたが、別に商店の子や農家の子にとっては、それで当たり前だから、当時は何とも思わなかった。
 (もちろん、今なら「ちょっとハンデが重すぎないか」とクレームを言うと思う。)
 机の前に座った時には、既にクタクタだ。
 高校の時には、「こいつらにも同じ作業をさせてみろ」と思っていた。俵を百俵積んでから来い!(理不尽だ)

 だが、十二月のトラウマはこっちの方ではない。
 冬にキツいのは、鮮魚市場の方だった。
 平日は学校があるから無理なのだが、冬休みになると、朝四時に起きて市場に連れて行かれた。父が競りで落とした鮮魚をトラックに積む作業なのだが、軍手しかなかったから、直接、氷水に手を突っ込む。
 冬の早朝に氷水に手を突っ込むとどうなるかは、豆を担ぐより想像がたやすい。その当時は子どもの点けるゴム手などなかったし、前掛けも布だった。ズボンの前が濡れるので、心底より凍えた。
 積み込みが終わるのは、朝の九時頃なのだが、そこで市場食堂で朝食を食べる。この時に熱い味噌汁が出ると、本当に生き返った。
 家に帰ると、今度は店に下ろす作業があり、これが終わるのが昼過ぎだ。
 休む間もなく、今度は黒豆担ぎだったから、正直痺れた。

 いまだに夢に観て、手足が冷たくなっていることがある。
 学校の授業では、十二月はほとんど居眠りをしていた。

 とまあ、これは前にも記したことだ。
 母の晩年に話したことだが、母が父のところに嫁に入ったのは、祖父の命令だったという話だ。
 母の実家は旧家で、戦後、土地の大半を取り上げられた方だった。母によると「戦前は見渡す限り自分ちの田畑で、北上川の辺まで続いた」という話だ。直線距離で一キロはありそうだ。
 祖父は厳格な主で、伯父や母たちは、父親の前では常に正座をして挨拶させられた、と語っていた。

 この祖父は頭の切れる人で弁舌も巧みだった。ニューギニアの島に派兵され、二万人の中で生き残って帰った五百人の一人だったから、死線を超えて来た者の「凄み」のような雰囲気を漂わせており、祖父を知る人は皆、「怖かった」と言っていた。
 孫の当方らには優しかったが、しかし、やっぱり怖かった。
 その祖父は、戦後になり農業を再編するにあたり考えたことは、「農家はただ作るだけでは行き詰る。市場を視野に入れる必要がある」ということだったらしい。
 そこで、米だけでなく商品作物の栽培を考えたが、その一つが雁食だった。
 祖父は「これを育て、売り出すには商人の頭が必要だ」と考えた。
 そこで、まったく資本力も基盤も無いが、「やる気だけは人一倍ある」という青年に、長女を嫁にやることにした。
 母はある日突然、「そこに嫁に行け」と言われたらしい。
 政略結婚なのだが、これも「お見合い」の形態のひとつだ。

 とここまでは、晩年の母から聞いていたので、承知していたが、最近、新たに気付いたことがある。
 それは、祖父が母を父に嫁がせたのは、父が雁食いの商売を始める前のことだった、という点だ。
 祖父が雁食栽培を始め、この販路開拓のために、母を商人に嫁がせ、その後で父が実際に商売を始めた、と言う流れになる。
 そうなると、父の雁食ビジネスは、「総てが祖父の計画したものの内」ということだ。
 今考えると怖ろしい話だ。頭脳明晰なだけではなく、決断力と行動力が伴っていた。
 今とは時代が違うが、自分だけでなく北岩手の農業の生末まで考えて、「まだ何も持っていない若者のところに娘を嫁にやる」を実践した。

 昭和四十年代にはもの凄く儲かり、店の売り上げより黒豆の方がずっと大きかった。
 五十年台以降、お節料理を作る習慣が下火になり、黒豆もあまり売れなくなって行ったが、当方が大学生の時までは、父と一緒に穀物問屋に営業に回った。
 一番良かった時には、「小遣いだ」と二千万貰ったが、当方が三十歳で自分の会社を作れたのは、多くはそのお金があったからだった。ま、開業後すぐに事務所荒らしにやられて、自分で建て直すほかはなかったから、その後は自力による。

 十二月の記憶は「ひたすらキツかった」ということしかないのだが、その反面、すごく楽しかったとも思う。
 昭和四十年台から五十年ころまでは、国の経済が成長していた。その後のバブルの時とは違い、実体経済が成長していた。

 「黒豆」と言うと、多くの人は「丹波産」とか「十勝産」を思い浮かべると思うが、当時はそれを聞いて、せせら笑っていた。
 実際に食ってみると、味の沁み込み方が全然違う。
 昭和六十年台にようやくそれに気付いた東京の業者がやって来て「ぜひ売ってくれ」と買いに来たが、生産や流通の体制が崩れていたので、注文に応えられたのはそれほど多くは無かったと思う。

 今考えると、小中高のあの経験があるので頑張れたし、これからも踏ん張れると思う。その頃ほどキツくない。
 風邪を引いても、「四十度を超えない限りは大丈夫。死なない」と思っていた。父にそう言われたのかもしれんが、記憶には無い。だが、それで学校に来られたら、周囲の生徒は迷惑しただろうと思う。インフルなら必ずうつす。


 苦労話のようだが、同時進行的には当時は当たり前だと思っていた。他の選択肢がないから不平も無い。