日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎年末の「真鱈」の思い出

年末の「真鱈」の思い出
 十二月の二十九日くらいが鮮魚市場の最終日で、それ以降、年始の三日か四日に再開されるまで、市場が閉まる。
 毎日、漁港から沢山の魚が届いていたわけだが、売れ残った鮮魚は総て廃棄処分になってしまう。
 私が小学三年か四年の頃、その最終日に、大量の真鱈の水揚げがあった。もう年末休みに入る時に、捌ききれぬ鱈が大量に売れ残ったから、市場の関係者が大いに弱り、誰彼となく魚屋店主に声を掛けた。父は競りが終わる頃まで場内にいたので、やはり声を掛けられた。
 「何とかこれを轢起き取っては貰えんだろうか」
 他の店主にも声を掛けただろうが、真鱈の木箱が百数十箱も残っていた。そんなのは捌き切れぬだろうから、誰も引き取らない。
 だが、廃棄処分になると、売り上げゼロどころか、廃棄物の処理代金までかかってしまう。
 通常そんな市場の売れ残りは、相場の二割かそころの値段まで落ちる。場合によっては一割だ。
 真鱈一匹が三キロ超のサイズで、雌が五千円、雄が七八千円くらいの小売り売価だと思うが、これが三四匹入った木箱ひとつの卸値が箱あたり数千円。
 父は勝負を打つ方なので、「たぶん売れる」と考え、全部引き取ることにした。他に海鮭が七八十箱あり、父の軽トラックでは運べぬから、同業者に頼みトラックを借りて運んだ。

 これが店の店頭に積まれたのだが、当時は夜にはマイナス十度以下だったから、箱を山積みにしてブルーシートを掛けただけだった。翌朝には凍り付いて冷凍状態になっていた。
 年末だけに、商売がかなり忙しく、臨時アルバイトを十人以上雇って対応したが、外回り(「外配」)の一品単価が高い品については、家の者が担当しなくてはならない。コーナーによってはその一角で売り上げが日に何十万もあるので、バケツに売り上げを放り込んでいた。臨時バイトなら、良からぬ気持ちを起こして不思議ではないので、そういう売り場は親族が担当した。

 その真鱈と海鮭の「外配」は小三の私が担当になった。
 単価が高いので、他の者には任せられないが、家族親族には各々の担当が既に決まっていた。
 父や叔父たちは、厨房でひたすら刺身を切っていた。

 真鱈は雄雌で売価がかなり違うのだが、これはお腹の中に入っているのが「鱈子」なのか「白子」なのかという違いによる。
 白子の方が鍋料理などに使えるので、雄が好まれたし、売価も高かった。
 このため、客は「雄の方をくれ」と言う人の方が多かった。
 顔を見ただけでは、鱈の雄雌は分からないので、肛門付近に包丁を少し入れ、中を検める。すると、赤っぽいのが鱈子で、白っぽいのが白子だからそれで分かった。
 初日にはこの検めを何十本も繰り返したが、そのうちに気付いたことがある。
 包丁を入れる時に、鱈の肛門に指を入れ包丁を入れるのだが、「雄雌で指の感触が少し違う」ということだ。
 雌(鱈子)の方が少しざらざらしており、雄(白子)の手触りの方が柔らかい。
 慣れて来ると、肛門から少し指を入れただけで、雄雌の判別がつくようになった。
 二日目三日目には、ほんの数秒で「はい雌」「はい雄」と識別が出来た。

 三十日の夕方に、五十台くらいの土方のオヤジの客が来て、「雄の方をくれよ」と私に言い付けた。
 そこで私は例によって鱈の肛門に指を少し入れ、「はい雄です」と袋に入れようとした。
 するとそのオヤジは、突然怒鳴り出した。
 「そんなので分かるわけがね。もしこれが雌だったら、俺は一円も払わねぞ!!!」
 そんなのは尻を切って調べればよい話で、小三の子ども相手に「もし雌ならタダで貰う」はないと思う。子どもを脅している。
 だが、この時には私も自信があり、オヤジの目の前で、鱈の肛門に包丁を入れ、中身が見えるように切り裂いて見せた。
 すると、やはり中は白子だった。
 それを見たそのオヤジは心底より驚いた表情をして、「あれま本当だ。あれで分かったのか。おめは凄え奴だ」と言った。
 私は子どもだったが、自分の判断に誤りが無かったことを誇らしい気持ちになった。
 指をちょっと突っ込めばすぐに分かる。

 当時はまだ高速道が無く、青森の野辺地辺りに向かう客まで店の前の国道を通ったから、年末年始には店頭に黒山の人だかりが出来た。店頭には、駐車スペースが無くなるほど商品を山積みにしていたから、通行人の目を引いた。そういう車が立ち止まり、店の前後に路駐の車が連なった。
 年末は三十一日の夕方まで営業したが、真鱈と鮭の大半を売って、毎日その売り場だけで百万近い売り上げがあった。
 バケツに札を放り込み、それが一杯になると、家の中に持って行き段ボール箱の中にぶちまけると、すぐに空のバケツを持ってまた店の外に出た。
 店の前では、灯油缶に薪を突っ込み、火を焚いていたが、日中でもマイナス十度近かった。このため、一日中外にいると、体の底まで冷えた。
 この年には、私が担当した売り場の金額が多かったので、父は「バイト料」として、十五万くらい渡してくれたと思う。
 小学生の「お年玉の総額」が平均で一万行かなかった時代のことだ。

 毎年、仕事が終わるのが大晦日の午後五時で、それから後片付けがあるから、家の中に入るのが八時頃だった。風呂に入り、炬燵に脚を入れると、疲労で眠くなり、飯も食べずにそこで寝た。
 このため、小学生の時には、紅白を観たことが一度もない。
 炬燵に入ると、もはや十分も起きていられなかったと思う。
 翌日が元旦だが、朝目覚め、「あけましておめでとうござます」と挨拶をすると、店自体は元日二日は休みなのだが、すぐに仕事が待っていた。
 正月のご馳走の注文があり、折詰弁当を何百と作らねばならなかったのだ。
 父は刺身を切る一方で、家じゅうに並んだ折詰に「ここにはこれを入れろ」と指示を出し、家の子が蒲鉾やら玉子焼きを入れた。ホタテの煮物もあり、それを何百も触れているうちに、すっかりホタテの匂いが嫌になり、ホタテが苦手になった。
 元日の昼に新年会を催す家が幾つかあり、その需要に応えるための仕事だった。これが二日の午後まで続き、それが終わると、ようやく実質的な年始休みになった。
 子どもたちは三日から五日までは休んでいたが、店は三日には開いたから、父はずっと働いていたことになる。
 四十台五十台の父は、とにかく働き詰めだったが、私らは自分の務めをこなすのに精いっぱいで、そのことに気付いたのは大人になってからだった。

 こんなことがあり、正月の記憶と言えば、ほぼ染之助・染太郎師匠の「おめでとうございます」の声と、「傘の上に回る毬」くらいしかない。後は果てしなく続く折詰弁当の仕出しだ。

 真鱈の「土方のオヤジ」の件は、酒席の時にする「子どもの頃の思い出話」のも持ちネタのひとつだ。
 「子どもでも鱈の肛門に中指を入れると、それが何かの判別がつく」
 で、ここから怒涛の下ネタが始まる。
 「大人になった今でも、ひと度肛門に指を突っ込みさえすれば、それがナンボのもんかが分かる。例えそれが人間でも」
 はい、どんとはれ。