日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎一枚の写真

一枚の写真
 年末で少しずつ掃除を始めた。
 神棚周りを片付け始めると、雑多な箱の下に額入りの写真が挟まっていた。
 「おお、これは昔の俺んちだ」
 これは昭和三十年代に住んでいた最初の家だ。四十年台からは、次の店舗兼住居に移り、長らく倉庫になっていた。
 それが二十年前くらいに取り壊されることになり、「その前に」と撮影し、その画像を実家の応札間に飾っていた。
 二十年前には、その向かいの家にも住まなくなり、住居は三番目の店の近くに移った。

 「だが、俺のアイデンティティは今もここにある」
 画像はこの一枚だけだが、私にとっては貴重な一枚だ。
 二階の先の部屋が兄と私の部屋で、兄は布団の上げ下ろしを面倒がり押し入れで寝ていた。
 小学校に入ると、三年生頃に道の向いに店舗と住居を移したから、東京五輪の前後くらいしか記憶がない。

 昔はトイレは家の中には無く外にあった。家の裏に大きな樹があるが、この後ろにトイレがある。
 二階の部屋からは、廊下を辿って階下に降り、居間と台所を通って外に出て、なおかつ十数㍍離れたところがトイレだ。夜中は真っ暗だから、暗がりが怖くて行けなかった。
 二階の廊下の隅に「おまる」があったが、私はそんなのは使わずに、窓を開け、そこから外に放尿した。
 今、都心で同じことをやったら大事件になってしまうが、人家の少ない田舎だし、子どもだからさして汚くもない。

 古い家だけに、床板に隙間があり、店舗部分の床の隙間から床下を覗くと、隙間から落ちた小銭が沢山散らばっていた。ああいうのは取り壊しの時に誰かが拾ったのだろうか。
 店舗の事務スペースには、長椅子(ソファ)が置いてあった。
 客からは見えない位置にあり、そのソファで父はよく寝ていた。早朝から市場に出掛け、帰って魚を捌いた後、午後に小一時間ほどそこで眠っていたわけだ。
 小学四年の頃だと思うが、上の叔父が家にやって来ると、私をソファまで手招きをして呼んだ。上の叔父は皆から「山の叔父ちゃん」と呼ばれていたが、開拓農家兼馬喰を生業にしていたことによる。
 「おめ。よく覚えて置け。小遣いが欲しかったら、まずはこの長椅子の隙間を見ろ」
 そう言って背もたれの間に棒を差し込むと、百円玉やら十円玉がぞろぞろと出て来た。
 「次はおめの親父の長靴だ。これを引っ繰り返して見ろ」
 その時、父は外出しており、作業用の長靴は入り口に置いてあった。
 「山の叔父」が長靴を引っ繰り返すと、そこからも小銭が転がり出た。

 「おめの親父は商売で毎日市場に行っている。面倒だから小銭はポケットにそのまま入れる。小銭の枚数が多いから、ポケットに穴が開き、長靴の中に落ちる。だが、疲れているし面倒だから、おめの親父はそのままにしている。店に戻り、昼に仮眠を取るが、その時にもポケットから小銭が落ちて、背もたれの隙間に落ちるんだぞ。親父は気にしないのだから、それを貰っとけ」
 まるっきりその通りだった。
 たぶん、小学生の頃は、月に三千円くらいのお小遣いを貰っていたと思うが、その後はそんなのは要らなくなった。

 毎日、学校から帰ると、まず父の長靴を引っ繰り返した。
 じゃらじゃらと十円玉五十円玉百円玉が落ちる。
 その後で、長椅子の隙間を探ると、こちらからも何百円か分の小銭が拾えた。
 これが毎日の話で、一日に八百円から千円の小銭が手に入った。
 ひと月なら万を超える。
 昭和四十年前後の話だから、小学生の小遣いとしては十分過ぎるほどだった。

 その長椅子の隙間を探る時に、床板の隙間にも目に行ったが、その時に「床下にもお金が沢山落ちている」ことに気付いたのだった。
 この画像一枚で、総ての記憶が蘇る。
 ひとは「生れ落ちてから毎秒ごとに起きた出来事を総て記憶している」というが、その通りだと思う。普段は「記憶の押し入れ」の中に仕舞い込んでいて目に付かぬだけ。

 父母や叔父たちは、記憶の中で、依然としてまだ生きていると思う。今も皆の声が聞こえる。

 

追記)家の後ろにある大石

 この家の後ろの大木の辺りが隣家の庭になっていて、その中に大きな石があった。腰の高さまでの自然石だ。
 向かいの家に住むようになった後、中1くらいの時に、ひとつの夢を観た。
 山伏が歩いて来て、この石にもたれかかるように腰を下ろした。
 そしてそのまま死んでしまう、という内容だった。
 朝目覚めてから、母にそのことを話したが、母は店に隣家の小母さんが来た時にそれを話した。
 すると、その家の小母さんは、「それは大変だ。すぐにうちに来てください」と私を呼び付けた。
 隣家の小母さんは、私を連れて、石のところに行き、「あなたが観た夢は、ここで実際に起きたことです。かなり前にここで旅の山伏が死んだけれど、どうしようもないから、ここに埋葬したのです」と言った。そして、二人で石の前でお焼香をした。

 この地はちょうど欧州の霊場のひとつである姫神山への「東の入り口」で、昭和四十年台までは、盛んに山伏(修験者)が行き来していた。
 この家にも、裏に来て托鉢を求める山伏が頻繁に寄っていた。
 この地で一人の山伏が死んだのは、戦前の話で、たぶん、明治期ではないかと思う。

 後に三十台の頃に、数々の霊障に悩まされる時期があり、霊感協会のO先生のところに相談に行った。
 その時に、O先生は開口一番で、「あなたは昔、山伏だったことが幾度もあります」と言った。
 この時にはもの凄くドキッとした。
 「もしかして、隣家の大石のところで死んだ山伏は、俺自身だったかもしれん」と思ったからだった。