日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎病棟日誌 R060521 「さっぱりな日々」

病棟日誌 R060521 「さっぱりな日々」
 この日の計量は介護士のバーサン。
 七十台でしか分からぬような「懐かしいあの人」の名前を言うことにした。
 「お名前は?」
 「藤木孝です」
 「うーん。誰だっけ?」
 「ほれ。ロカビリー歌手で、後に悪役俳優になった。水戸黄門にも散々出てたから、名前を思い出せなくとも顔は分かるはず」
 と、知った風なことを言うが、さすがに当方でも歌手時代のことは知らない。昭和四十年台から五十年台には、テレビや映画で主に悪役だった。
 藤木さんは数年前に亡くなられていると思う。昭和を彩った俳優さんだ。

 ベッドに座っていると、オヤジ看護師のタマちゃんが問診に来た。
 「あれ。頭がさっぱりしましたね」
 日曜に散髪をしたので、そのことを言っている。 
 「頭だけでなく、日々がさっぱりだね」
 「さっぱり」には使い方が二通りあるから、言葉遊びにはちょうど良い。
 「さっぱりする」はプラスのイメージだが、「このところさっぱり」は後ろに否定的な意味が加わる。

 ここで蘊蓄スイッチが入る。とかく「蘊蓄を垂れるオヤジ」ほどウザイ者はいないが、他人がそれを煙たく思い、なるべく遠ざかってくれた方が助かるから、意図的にやっている。基本的に人づきあいが嫌なもんで。
 「『さっぱり』を漢字で書けば、『清々』の二字か、それに『り』を足した『清々り』だ。辞書で引けば『さはやか(爽やか)』の『さは』と同じ語源だと書かれているが、根拠は薄い。別に『さっぱする』と言う言葉もあるから、むしろ『さっぱ』を辿った方がよいのかもしれんよ」 
 「さっぱする」を応用例で紐解くと、例えば、庭で鶏を放し飼いにしていたとする。

 牝鶏はあちこちで卵を産み散らかすから、子どもたちが毎朝、卵を拾い集める。その集めた卵には、土や泥が着いている。その汚れを水で洗い流した時、表面がきれいになるが、その時、卵を洗う行為を「さっぱする」、きれいになった状態を「さっぱりした」と言う。また、きれいになったことで、表面に何も残らなくなるが、それも「さっぱりした」と言う。「何も残らない」は否定的な要素がある。
 要は、ひとつの行為について、角度を違えて眺めると、プラスのイメージにもマイナスにも見えるということだ。

 「俺なんか、まるっきりさっぱりな毎日を送っているが、とりわけ財布の中がきれいさっぱりしているわ」
 「僕も同じです」

 次にオバサン看護師のウエキさんがやって来た。
 「調子はどうですか?」
 「どうやら俺は老化が進行しているらしい。こないだはブレーキが踏めなかった」
 「え。どうしたんですか」
 「スーパーの駐車場で、突き当りで止まろうとしたが、ブレーキが踏めず、そのまま直進した。ハンドルを切って、二階駐車場へ行く道に突っ込んだからぶつからずに済んだが、どの位置に車がいても衝突したと思う。スーパーに突っ込んでいたら、『また高齢者が』とニュースで言われただろうな」
 「踏み込みが足りなかったんですか?」
 「いや、ペダルに当たらなかった。正面を向くと、真下にブレーキのペダルがあるが、三回踏んでもペダルに当たらなかった。体感的には、『ペダルが存在しなかった』感じだったね」
 「事故にならなくてよかったですね」
 ここで、もう一度その時の状況を思い出した。

 「ある一瞬、ペダルが消えてたね。から足が三回だ。よほど俺の認識能力や判断力、体感が鈍っているか、あるいは悪霊の仕業だわ」
 最後はブラックジョークを足してみた。
 ウエキさんが「まさかそんな」と笑う。
 たまたま師長が傍にいて話を聴いていたが、師長は笑わなかった。ま、この世の者ならぬ者の姿を見せているから、当方が「あながち冗談で言っているわけではない」ことを知っている。

 長いこと、平均台の上を歩いている気がする。
 左がこの世で、右があの世だ。
 今のところ、フラフラと真ん中を歩けているが、いずれは右側に落ちる。
 長く台の上にいると、夢や希望を失うが、その一方で失意や未練心も少なくなる。
 人生五十年で身につけて来たものを、その後は一枚一枚引き剥がすように捨てて来た。

 これでとにかくさっぱりしたが、「さっぱり」には二つの意味がある。

 

追記1「家の庭で鶏を飼っている」ような家など、もはや昭和の話で、今はほぼいないと思う(w)。

 当方が子どもの頃に、家では軍鶏を飼っていた。戦前の生活を知る父や祖父は「何が起きても飢え死ぬことのないように」と雄鶏1羽と牝鶏3羽くらいを放し飼いにしていた。
 当方が幼稚園くらいの時に、道路から家の横に走り込んだら、地面に丸まって寝ていた雄鶏を踏みつけてしまった。雄鶏は怒り、当方の頭を嘴で嫌と言うほど突いた。
 これがトラウマとなり、当方は軍鶏も鶏も嫌いになった、鶏肉も一切口にしなかった。

 これが変わったのは十後六年後だ。
 学生の時に難民キャンプで働いたことがあるが、ある時、ヴェトナム人の難民家族が「日頃のお礼に」と当方ともう一人を招待してくれた。場所はキャンプの中で、一時住まいの掘っ立て小屋だ。
 そこでヴェトナム人家族がスープを振舞ってくれたが、当方に渡されたスープの中には、アヒルの頭が入っていた。嘴を抜き、頭は半分に割られていたが、すぐにそれと分かった。
苦しい生活の中、もてなしてくれているので、「自分は鶏が苦手だ」とは口に出来ない。
 黙って食べ始めたが、幼児の経験が蘇り、脳味噌がちぎれるかと思った。
 だが、この荒療治のおかげで、以後は鶏肉が平気になった。
 中国の知人が、当方を揶揄おうと、鶏の頭や脚の料理を注文したことがあったが、普通に食べられた。ちなみに、コリコリして美味しい。例えれば豚の軟骨だ。
 中国人は当てが外れてつまらなそうな顔をしていた。