日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

金網ブルース

 私の祖父も叔父たちもプロレスが大好きで、頻繁に興業まで連れて行ってもらいました。よって、ラッシャー木村さんの試合を、国際プロレスの興業会場で何度も見たことがあります。
 昭和40年代の岩手では、東京プロレス(?)やその後の馬場・猪木の試合は、テレビでは放映されておらず、プロレスと言えば国際プロレスでした。

 盛岡の巡業の翌日、西根町の会場で見たこともあります。
 昭和40年代で、木村さんはまだ「ラッシャー」に成り立てでした。
 木村さんの凄さは毎日、金網デスマッチに出ていたことで、試合の度に流血していました。
 たぶん、年に150試合以上はしていたと思いますが、その大半が流血試合だったのではないでしょうか。
 今は年に数試合、大会場のみの出場で暮らしているレスラー・格闘家も多いですが、その当時はそれが当たり前だったのだろうと思います。
 でもこれっていかにもキツイですねえ。

 その後、国際プロレスが崩壊し、木村さんや浜口さん、寺西さんは戦場を求め新日プロを訪れました。
 そこでは、もちろん猪木選手の敵役としての扱いです。

 何度目かの木村-猪木戦では、木村さんは腰の負傷で起き上がれない状態だったのに、試合をキャンセルすることなく、かなり無理をして出場しました。
 おそらくリングに上がっても、立っているのがやっとの状態だったのではないかと思います。
 実際、リング上の木村さんは、猪木選手と組み合っても、何もできません。
 事前に、新聞で木村さんが負傷していることを報じていたのは1紙だけでした。
 それでももちろん、プロレスファンの何割かは知っていたと思います。

 その試合では、猪木選手はひたすらナックルパートで殴りつけるだけで、ほとんど試合になりませんでした。
 従来の新日ファンは「やっぱり猪木が強い。木村は敵ではない」と思ったでしょうが、国際プロを見慣れた者にとっては、理不尽な思いがした試合でした。
「全盛時のあの国際プロで、かつ金網で戦ったら、こうはいかんだろう」と思ったのです。

 その時より後、しばらくの間は試合を見に行くことは無くなっていたのです。
 しかし、木村さんが新日を離れ、全日に現れた時は、後楽園ホールに足を運びました。 
「義兄弟コンビ」は良かったですねえ。暖かくて。
 義兄弟コンビとしての出場は1回だったと思いますが、この頃は最高でした。
「金網の鬼」にも、ようやく安住の地が見つかったのでした。

 その後は、レスラー人生としては晩年に属するのでしょうが、木村さんの佇まいにはブルースを感じます。
 主戦場が「常にケージ(金網)の中だった」ということも影響しているのかもしれません。
 地方で行われた木村×ジプシー・ジョー戦のビデオは残っていないでしょうし、またあったとしても直に見るのとは印象が異なるのだろうとも感じます。
 ショービジネスの華やかさとは無縁だった試合には、いつもブルースが流れていました。