◎これぞ「昭和」を表す言葉
「昭和」という時代について、最初に思い浮かぶのは、「ビル・ロビンソン」(または「ダブルアーム・スープレックス」)だ。
昭和四十年代では、ビル・ロビンソンは大スターだった。
小学生の頃に、岩手県の西根町に国際プロレスの興行が来たことがあるが、その時に間合い20センチの距離でこの人を見た。
その日は確か土曜日だった。小学校から帰ると、祖父が「一緒に来い」と言うので、黙ってついて行ったが、いつもと違い、川に釣りに行くわけでは無かった。
2キロくらい歩いて、分岐駅の「好摩」に着いたが、祖父はまだ先に進む。
「いったい、どこに行くのだろう」
訳も分からず、ひたすらついて行った。
そこからが果てしなく長かった。
結局8キロくらい先の西根町の特設会場(要するに空き地)まで歩かされた。
小二か三くらいだったので、キツくてキツくて大変だった。
何せ十キロ歩かされるとは思わない。
祖父は格技が好きで、相撲やプロレスはそれこそ真剣に観た。
その日も、開催は夕方からだったのだが、父や叔父が仕事を終わってからでは、最初の数試合が観られない。
そこで祖父は「午後のうちに歩いて行く」ことを思いついたが、一人では長いから、孫を連れて行ったのだった。
ラッシャー(木村)さんが、まだ若手の時代だった。
ビル・ロビンソンは当時からスタア選手で、その日も、草津(グレート)さんと試合をして、あっさり勝ったと思う。
今やダブルアーム・スープレックスを使う選手はいない。
見栄えのしない技なのに、かなり危険で、怪我人が続出した。
両腕を固定して頭から落とすから、受け身が取れず、後頭部か首を強打して怪我をしてしまうわけだ。
寺西さんは(確か)、それで首を負傷して、長期離脱したと思う。
ビル・ロビンソンはその後、全日(たぶん)にも出たが、その頃にはさすがに年齢が見えていた。五十台の半ば過ぎだ。
祖父は口数の少ない人で、本人は何ひとつ語らなかった。
祖父の人となりは、皆、周囲の人の思い出話から聞いたものだ。当方が小五の時に亡くなったが、布団から起き上がれなくなってから、三日くらいだったと思う。
孫(私)が相撲で郡大会に出た時には、叔父が祖父を連れて観に来ていたらしい。
その時、祖父が「涙を流しながら観ていた」という話を、後になり中学生くらいの時に知人から聞いた。
祖父は祖父なりに、孫のことを愛情をもって眺めていたのだった。
中学生の時にも、相撲で郡大会(か県大会)に出たが、その時も「祖父が観に来ていた」ような記憶がある。
観客席の中に祖父の姿を見たような記憶があるのだ。
でも、よく考えていると、祖父は当方が小五の時に亡くなっていた。
昭和の高度成長期には、あらゆる意味で活気があり、夢や希望に満ちていた。
平成バブルとはまったく異なり、実体経済が発展していた。
やはり「昭和」の物語も書かなくてはならないと思う。