日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

夢の話 第201夜 里帰り

このところ、急に寒くなってきたせいで、体調が急降下しています。
あちこち具合が悪くなり、週に2回ずつ通院しています。
夜もあまり眠れず、2時間くらいずつ2回に分けて横になる程度です。
これは、今朝方に見た短い夢のひとつです。

電話がかかり、受話器を取ると、郷里の母の声です。
「これから年末まで忙しくなりそうだから、帰って来て家を手伝って」
そこで、急遽田舎に行くことにしました。

車を運転して向かったのは、今の家ではなく、かつて子どもの頃に暮らしていたほうの家でした。
夕方の5時頃で、もう薄暗くなりかけています。
元の家は今は倉庫になっているはずなのに、灯りが点いていました。
家の前には、魚やら野菜やらが山積みで、人が沢山います。
家は小さな生鮮食品店(よろづ屋)ですが、盆暮れだけはアルバイトを10人くらい雇って商いをしました。

「おお。まるで昭和40年代みたいだな」
家の前の駐車場には、5、6台しか停められませんので、横にあるガス倉庫の横に車を停めます。
オイルショックの直前は、もの凄く景気が良く、真鱈や鮭が木箱で何百箱も売れたものでした。
小学生の私も、家の手伝いで店の前に立ち、ひと箱7、8千円の魚類を次から次に売りました。
この地域には商店が少なかったので、父は勝負時だと見れば、市場で大量に仕入れて、家の前に山積みしました。好景気の時でもあり、父の目論見が当たり、大商いになったのです。
ある年など、私の持ち場の売り上げだけで数百万円に達し、歩合で数パーセント貰える約束だった私のお年玉(給料)が数十万円でした。
ちなみに、その時の私は小学校の低学年です。

「そう言えば、昔は紅白とか見たことがなかったな」
晦日まで働き、後片付けをした後で、炬燵に座ると、もはや除夜の鐘です。
元旦の朝には、新年の仕出し会席の準備があるので、そのまま炬燵で寝込んでしまいます。
毎年その繰り返しです。

目の前にある光景はその頃のままでした。
叔父たちが店頭に電灯を配線したらしく、店の前は明るくなっています。
「この頃は幸せだったよな。オレだけでなく、日本人全部がそうだったと思うけど」
懐かしさを感じながら、店に近づきます。

すると店の出入り口のガラス扉が開き、女性が1人出てきました。
「あっ。あれは」
母でした。
母はまだ30代で、若々しい姿です。
思わず足を止め、母が動く様子に見入ってしまいます。

母は段ボ-ル箱を台の上に置くと、再び店の中に戻って行きました。
その後ろ姿に引かれるように、ガラス扉に近づきます。
ガラスの奥。魚用の厨房の中に父が見えました。
父もまだ40そこそこで、今の私より若い年齢です。

「○○さんとこの皿盛、上がってますかあ?」
アルバイトの女性の声が響きます。
「ああ、出来てる。こっちに置いてある」
返事をしたのは、叔父のほうでした。
昔みたいに、父と叔父たちで刺身を切っているのです。

「じゃあ、早く中に入って手伝わないと」
着替えをしなくてはなりませんので、店の横に回ります。
店の後ろには住居がくっついていますが、その玄関口は横にあったのです。

「久々に叔父ちゃんたちも来たことだし、今年の正月は楽しそうだ」
叔父2人が亡くなってから、もうかなりの年月が経ちます。
叔父たちが揃った時には、必ずトランプ大会になるんだよな。
子どもも参加するバクチ大会で、相手が小学生でも容赦しない叔父たちでした。

「でも、今は違うよ。オレはあの頃の叔父さんたち以上にバクチ打ちだもの」
腰に前掛けを巻きながら、田舎に帰った実感を噛みしめました。

ここで覚醒。

家人に「こんな夢を見た」という話をすると、「なんだか、もうじき亡くなる人が見る夢みたい。気を付けたほうが良いよ」という反応でした。
私も同じ意見で、いかにも「死期を感じている者」が見そうな夢だと思います。