日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎俄かには信じられない話

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◎俄かには信じられない話 (もしくは腰が抜けた話)
 果たしてこんなことが現実に起きるものなのか。
 どう解釈すればよいか、今も分かりません。

 まずは数日前のことから。
 郷里には、自身の用事のほかに、今は福祉施設にいる父と、腰の骨折でリハビリ中の母を見舞うために行きました。
 家には、母の他に、夜だけ伯母が泊まりに来てくれていましたので、少し安心しました。
 そこで、体調の話をしたのです。
 「心臓の治療をした後、2回くらい心不全になったのですが、その時に幽霊や死神を見ました」
 そう言うと、伯母は「ああ。金太郎さんもそういうことを言っていた」と言います。
 金太郎さんは母の生家の分家の親爺さんでしたが、既に癌で亡くなっています。
 4つの臓器に出来た癌を切除したのですが、そのうち2箇所同時に切った時に最大の危機が来たとのこと。
 金太郎さんは術後にひとまず退院して家に戻ったのですが、「家の中を死神が歩いている」と言ったそうです。
 その時、金太郎さんが、その死神に「まだ俺は行かない」と言うと、死神は消えたらしい。
 金太郎さんは、既に末期癌の状態でしたが、その後数年生きられた、とのことです。
 この方がどういう感じのものを見たかは、私自身が同様の体験をしましたので、合点が行きます。

 特徴はこれです。
「見た目は生きている人となんら変わらない」
「しかし、顔を見た瞬間に、それがこの世の人ではないことが分かる」
 
 最近の私はこの手のヤツを見なくなったのですが、父(認知症が進行中)は時々見ているらしい。
 前回、父が言っていました。
 「女が来て俺に色々教えてくれる」
 どこそれの誰という具体的な話になっているのですが、もちろん、実在のその人とは別の人です。
 その女が教えてくれる内容は、「母が誰か(若い男らしい)と温泉に行ったのを見た」という類の妄想話です。もちろん、母は入院していましたので、土台アリエネー話です。
 愛情が認知症で歪み、嫉妬心に変わっています。

 話はここから。
 じっとしていても仕方がないので、図書館に行きました。
 それから家に帰り、その夜は普通に眠ったのです。
 かなり眠った後、「パッキーン」という音で目覚めました。
 「冬で家屋の材木が乾燥するから音を立てるのだな」
 そう考え、再び眠ろうとしました。
 すると、また「パキン」「パキン」と鳴ります。
 「今夜はよほど寒いと見える」
 それに呼応するように、今度は「パキ」「パキ」「パキ」「パキ」「パッキーン」と鳴り出しました。
 「おいおい。こんなに沢山鳴るものなのか」
 少しぞっとします。
 この時横になっていた部屋は1階で、東側が全面ガラス張りになっていますが、窓の外の方で氷を踏む足音がしました。
 ごくかすかな「シャリ」という音です。
 「この時間に誰が歩いているんだろ」
 間髪入れず、窓ガラスを右手の肉月で「タンタンタン」と三回叩く音がしました。
 五人くらいの人がガラスを叩いているのです。
 「こりゃ生きている人間ではないな」
 さすがにそう思う他はなく、それから般若心経を唱えました。
 こういう時には、どういうわけか文言を思い出せなかったりするので、いつも経本を持ち歩いているのですが、これは完全に覚醒している時の出来事でしたので、暗誦出来ました。
 この手の出来事の常ですが、頭の中には色んな情報が入ってきます。
 窓の外に立っているのは五人、とか。
 男性が三人で、女性が二人。うち一人は子ども、とか。
 昔は姫神山で修行をする仲間だった、とか。
 この中の一人は「お前一人で修行を抜けた。どういうことか」と私を詰ります。
 そこで私は「オレはただ死んであの世に行き、また生まれ替わっただけだ。あんたらは何故そのままそこに居続けているのか。まずはあの世に行け」と言い返しました。
 人の気配が消えるまで1時間くらいは掛かったと思います。

 翌朝になり、朝食を食べた後に、居間に座ってお茶を飲んでいたのです。
 居間は私が寝ていた部屋の隣です。
 その時は襖が開いており、隣の部屋もよく見えていました。
 核心はここです。
 私が椅子に座って、ぼうっとしていた時のこと。
 唐突に襖の陰から、女が顔を出しました。
 女は若いのか年配なのかが分からないような顔かたちです。
 「うわ」
 私が声を上げると、女が私のことを見ました。
 目が合った瞬間、私はヘナヘナと腰が抜けてしまいました。
 だって、その女は頭しかなかったのですから。
 頭だけが空中に浮かんでいるのです。
 
 しかし、女にはおどろおどろしさはまったく無く、7、8歳の子どものような表情をしていました。映画やテレビと決定的に違うのは、そういうところです。
 この女が見えていたのは、5、6秒の間です。
 出る直前もそうでしたが、水の中に手を入れてかき混ぜた時と同じように、周囲の景色が少し歪むと、女はフッと消えました。
 後になり、私は「こいつは、座敷ワラシみたいなやつではないか」と思いました。
 それと同時に、「父が言っていた女とはコイツか」とも。
 座敷ワラシの類は悪戯者なので、ただ単に父をからかったのかもしれません。
 そうなると、父の言うことは、あながち「認知症患者の妄想」だけではないかもしれない、ということになります。

 私の人生の中で「腰が抜けた体験」はこれが三度目です。
 一度目は、中学一年頃に自室の窓の下に、修験者に立たれた時。
 (その時は、自分の周囲に修験道場が沢山あることを知りませんでした。)
 二度目は、二十歳前、寮に入っていた時に、窓の外に「何か」に立たれた時。
 (窓には桟が無く、そいつは空中に浮かんでいました。)
 そして今度が三度目です。
 女が消えた後に、慌ててスマホで撮影したのですが、間に合いませんでした。これがその時の写真です。
 もちろん、写らないのは残念ではありません。
 動かしがたい証拠が残ったら、「そんなのはただの妄想だ」と打ち消すことが出来なくなります。

 一時の生命の危機を脱したので、「死神」や「幽霊」は消えたかと思ったのですが、まだいるようです。
 徐々に慣れて来ましたので、いずれタイミングよく撮影できる機会が得られると思います。
 「気が付いたら写っていた」のではなく、目の前で起きているものが写っていれば、完全な証拠になります。

 しかし、自分で経験したことなのに、やはり「俄かには信じられない話」になっています。
 これは馬場の熊野山を見に行く前日に起きた出来事です。
 もちろん、母や伯母には話していません。
 誰がどう見ても妄言の類になっています。