日刊早坂ノボル新聞

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「降点盛字」銭および「下点盛」に関する付帯的状況について (「古貨幣迷宮事件簿」より引用)

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「降点盛字」銭および「下点盛」に関する付帯的状況について (「古貨幣迷宮事件簿」より引用と追記)  

● 「岩手勧業場にて盛岡銅山銭二期・三期銭を作成した際に、下点盛が同時に作られた」という説がある(口碑である)。なお勧業場による鋳造実験は明治30年の一度きりである。宮、砂子沢両名が担当者だったが、両名とも鋳物職人ではなく一般職員だったと見られる。この年の勧業場に鋳物担当教官はおらず、「博覧会用」の経費科目で鋳造実験を行っていた。なお鉄瓶など鋳造法の研究を行ったのはこの年だけで、翌年からは紡織中心となった。このため、勧業場で貨幣を作った年次を特定出来ることになった。
 明治30年の鋳造であるから、勧業場鋳造実験に対する新渡戸仙岳の関与は無い。
 この年、新渡戸は岩手県教育長に就任しているため、他部署に関わることは無い。
 後年になり、新渡戸は「岩手に於ける鋳銭」の記述を補足・補正するために、南部史談会を通じ、宮、砂子沢両名から情報を得たのだろう。両名は一般職員だったので、同著が銭座職人の言い回しとは異なる表現を使用している。
 例えば、「陶笵銭」のことは、銭座職人であれば、単純に「母銭」と称する。
 あるいは「銭笵により作成した銭」と言ってもよい。

●昭和十年頃に宮福蔵が摸鋳を行った記録がある。銭種は下点盛および背モ、等。
 明治から昭和戦前記にかけての古貨幣の作成には、必ず宮福蔵が関わっている。

●昭和16年には、小笠原白雲居が下点盛の銅鉄銭、背山等の摸鋳を行った。
 後鋳品については、いずれも販売された形跡は無く、おそらくその製作意図は「知りたいから」「面白いから」という主旨であったと推定される。
 地元のものを「作ってみたい」と思うのが岩手県民気質らしく、後の古銭会会長K氏も複製品を作るのを道楽としていた。
●昭和40年代以降に地元で作成された品は、上記とはまったく異なり販売目的である。正規母銭より作成されているので、どのように形状を眺めても分からない。地元収集家に訊ね、製作を確認する必要がある。ネット上に安価で出ている品は、大半が後鋳品であることに注意が必要である。

●降点盛字銭の生成に関する小田嶋古湶の見解
 以上諸氏の考察中(1)(2)の書体の相違を鋳浚の結果とするに対し、更に卑見を開陳して置きたい。水原・新渡戸両氏の高見の如くはこの両種は正に原母を等ふするものであり、従って殆ど同一種のものとなるから、その考証は根底から覆ることになるが、然しこれについては次の疑問が生じてくる。 即ち長期に亘り鋳造せるものほど鋳浚い回数もその量も多かるべき筈であるが、盛字異書の如く極めて短期の鋳造と思わるるものは決して鋳浚回数が多かったとは想像されぬ。従って回を重ぬるたびに小異を生じ、遂には似もつかぬに変化したとは考えられぬ。

●下点盛の製造法に関する暴々鶏の見解
 鋳造貨幣を作成する初段階は「彫り母」を作成する。多くは金属板に下絵を貼り付け、これを彫金師が彫り、面背片面ずつ彫金したうえで、両面を貼り合わせるという手法をとる。その場合に念頭に置かれるのは、「数十万枚の製造に耐えられるような母銭を作る」ことと、そのために「砂型から取り出しやすい形状にする」ことである。このため、外郭、内郭、文字面について、互いに高さが違っていることが多い。また文字部分については、先端の方が細くなり、根元が太いという、「取り出しやすくするための傾斜」がついている。
 しかし、この下点盛の現品については、そういう配慮が見られない。郭、文字面とも極めて平坦なつくりになっている。これは鋳造貨幣の製造ラインから外れるものであり、別のもの、例えば印判の作り方に近似している。小田嶋が指摘した通り、この銭の場合は、1枚の彫り母から代を重ねる度に変化が生じたものではなく、複数の始発点が存在する。
 それは具体的には「印判」であろうと推定される。
 「下点盛」銭の始発は丸い判子に印判職人が彫ったもので、小異はその時に生じたものだろう。
 輪幅が狭くなるきらいがあるのは、印判を彫っていた時の習性による。

 以上を簡単に言うと、少なくとも下点盛は「流通貨幣を想定して作られたものではない」ということになり、すなわち作品であると考えられる。

今回追記)
 もちろん、昭和初頭に南部史研究者が見ていた「降点盛字銭」と今の「下点盛」が同一の品であるとは限らない。本物が存在したのかもしれないが、少なくとも、現存品とは別のものである。