日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎変な色のひと

イメージ 1

◎変な色のひと
 先日、知人に会い、近況を報告し合うと共に写真を撮らせて貰った。
 写真を撮るのは、煙玉や光が出ていないかを確認するためだ。
 最近、画像に残る頻度が高くなっているので、何か役立つかもしれないと思ったのだ。
 私自身の場合は、体の周囲に煙玉が出ると、どこかに変調、または異常がある。
 概ね、数ヵ月後には入院した。

 知人との話題のひとつが、知人の妹のことだった。
 「妹は変わり者で、少し困る時がある。時々、『全身が緑色の人を見た』とか、わけの分からないことを言う」
 私の見解はこう。
 「そういうのは、きちんと聞いた方がいいよ。他の者は『妄想だ』とか、『おかしくなったか』と言うだろうが、当人には実際に見えていることがある」

 母が亡くなる2年前に、父は突然、「母の浮気」を疑い出した。
 「俺が家に居ると、若い男がやって来て、『奥さんはワタシが連れて行きます』と言ったのさ」
 それで怒りのままに、母の実家にまで電話を掛けた。
 その話を聞いた誰もが、父は「認知症になり粗暴になった」と見なした。
 私が知ったのは、かなり後になってからだが、母の存命中に、「いつ」「どういう時に」を確かめてみると、母に病気が発生し、それが進行してゆく節目節目に合致していた。
 私はそれは「お迎え」の一種だと思い、父にもそう説明した。
 「親父が会ったのは、生きた人間ではなく、あの世から来た者だ。他の者は親父の話を信じないが、俺は信じるね」
 もし私がその場に居合わせたなら、それと察知して、「お迎え」を遠ざけることが出来たかも知れん。
 それだけが残念だ。

 私も「お迎え」に直接会ったことがある。
 幾度も書いたので、ここでは省略するが、到底、「この世の者とは思えぬ」存在を、実際に目にした。
 一度見てしまえば、「信じる」とか「信じない」のような次元ではないことが分かる。
 当人にとっては、現実そのものでしかないからだ。
 
 「だから、全身が緑色の人間は、あながち、妄想の産物ではないかもしれんよ」
 知人には、そう伝えた。
 それだけではない。
 「全身が緑色の人」ではないが、「全身が真っ黒な人」なら、私も見たことがある。
 全身が黒ならアフリカ系の人じゃないかと思われるかもしれないが、この場合は、肌がイカ墨のように真っ黒で、服も黒。おまけに身長が1メートルちょっとしかない人のことだ。

 実体験はこうだ。
 飯能の郊外を車で走っていると、道端に銅像のようなものが立っているのに気が付いた。
 周囲は山林か田畑だし、「ここに銅像があるのか?」と不審に思い、まじまじと見詰めると、その「黒い人」は私のことを見て、少し身動ぎをしたのだ。
 「お、おい」
 慌てて車を寄せ、後ろを振り返ると、既にその「黒い人」の姿は消えていた。
 あとでじっくり考えたが、「たぶん、昔から同じようなヤツがいて、それが河童みたいな妖怪の話になったのだろう」と考えるに至った。
 「黒い人」はともかく、「緑色の人」を目撃した人は、知人の妹だけではなく、割とたくさんいる。

 画像は、神社の境内でガラスに映った「金色の人」だ(左下)。
 出来の悪い人形のようだが、立っているのは建物の外で、そんなものはここにはない。
 ま、何かがそう見えただけかもしれんが、妖怪なんてそんなものだ。
 「お迎え」と違い、こっちは幾分、楽しめる部分がある。

 「座敷わらし」なんかは最高のアイテムだと思う。
 もし家に現れてくれれば、大切に扱うことは言うまでもない。
 その証拠に、競馬場にも連れて行き、アイスを食べさせてあげる。
 だから馬券の方はよろしくね(違うか)。