日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

ニューギニア戦線

母方の祖父は、太平洋戦争時にニューギニアとフィリピンの中間くらいの島に派兵されたと聞きます。
やはり守備隊は全滅の状態でした。

敗戦色が強くなった頃、将校に突撃を命じられたのですが、祖父は「やみくもに前に立ったら、殺されるだけ」と考え、敵の射撃してくる方向に対し斜交するように進んだということです。
この場合、前に進まないと後ろにいる憲兵に撃たれますので、前後からの弾に気を配る必要があります。

祖父の家の近所に住む若者も同じ隊に配属されていたとのことですが、この人の方は正面を進み、すぐに撃たれて死んでしまいました。
祖父はこの時、「頭の良い者でなければ、この戦をけして生き残ることはできない」と痛感しました。

敵前に突入した祖父の隊はほぼ全滅したのですが、数人だけが浜までたどり着きました。
祖父はその数人と一緒に、海の中に潜み、顔の一部だけを海面上に出し、息をしていたそうです。
それから4日間の間、祖父はずっと海の中にいました。
祖父たちは、米兵が近くを通ると海草や岸の草むらに隠れ、通り過ぎれば浜に上がって休むということを4日の間続けたのです。
しかし、体力が尽きついには動けなくなり、捕虜となりました。

捕まえられ、収容されてみると、自分たちの後ろで突撃命令を出し、時には兵隊を撃つことまでした将校や下士官たちは、皆捕虜になっていた。
戦陣の一番後ろにいるのだから、戦況が明らかとなりいよいよとなれば降伏します。
映画のようにいさぎよく行動できる人は多くはないのです。

「するいヤツだけが生き残るようになっている」
戦争のことを思い出す時、祖父は必ずそのように言いました。
もっとずるいヤツは、絶対に前線に出ずして「国のために死ぬこと」の美しさを讃えます。

戦争が終わり、祖父がようやく帰還してきたとき、自宅の玄関の前に立ったまま、祖父はただゆらゆらと揺れていたと聞きます。よほど消耗していたのか、帰ってくることができたという安堵心からだったのかはわかりません。
その時、叔母は6歳でしたが、変わり果ててしまった自分の父親のことがわからず、「玄関に怖い人が立っている」と母親に言いつけに走ったということでした。

憲法を変える国民投票のシステムができつつありますが、よくよく内容をチェックする必要があります。
なぜなら、案を作る人たちは、今後絶対に前線に行かないからです。
美辞麗句に惑わされず、自分のものとして考える必要があります。
もはや国のために死ぬという美談は要りません。戦争を起こさない知恵を身につけましょう。