日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎精算週間(453)

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11月15日撮影

◎精算週間(453)

 いつも不浄霊を拾い上げる時に、「ご供養を重ねる替わりに、きちんとツケを払ってね」と言うが、もちろん、願望に過ぎない。そもそも「第六感」「霊感」なるものは、想像や妄想に過ぎないから、本人が信じているだけかもしれぬ。

 画像に写るからと言っても、ただの「気のせい」であることの方がはるかに多い。

 「そんなことがあればいいなあ」という程度。そんなことは分っていて、人生の喜怒哀楽を楽しんでいるわけだ。

 この辺の微妙な感覚もなかなか伝わらないとは思う。

 

 ともあれ、今は四六時中、お腹がぎゅるぎゅると動いているが、これは腸が反応して活発に活動しているかららしい。これが「ツケ精算」なら、本当に助かる。

 ま、下血をして、その原因が癌なら、後は「多少の延命しか出来ない」そうだから、腸の検査と治療の方は様子を見つつ、じっくり進めることにした。どうせ、私の心臓では、大掛かりな手術は受けられない、とのことだし。

 とりあえず、先月より体感的な状態は改善されているが、実際のところは分らない。

 ま、「心臓と癌は治せない」と御堂観音でも言われていたから、淡々と歩むしかない。

 他の病因という要素が少なくなったところで、検査を再開することにした。

 

 それでも、私には「視聴覚域が若干広い」という特技?があるから、自身の状態を自分の眼で確かめることが出来る。そういう理由でお寺や神社に日参するわけだが、理由が個人的なものなので、他人に伝わらなくとも構わない。

 どうせ大半の人は、私が見ているものを知覚出来ない。

もちろん、それもゼロではなく、「同じものが見える」人が幾人もいるが、そういう人には説明が不要だから、要するにどの方面にも「説明は不要」ということになる。

しかし、やはり眼の前にあると、「ここがこうで」と説明したくなってしまうが、さしたる意味は無い。 

 

 この日は、執筆中の作中人物の人格を考えるために、ぶらぶらとドライブをした。特に宛ては無く、市街地の外をひと回りするだけだ。その間、この後、キャラをどう動かすかを想像した。

 帰路は例によって、いつもの神社に参拝した。

 西に向かうと、必ずこの神社の前を通るから、やはり立ち寄ってしまう。

 時間も午後2時だし、ちょうどよい。「ちょうどよい」と言うのは、幽霊が最も活動するのは午前午後とも2時から3時の間だからだ。

「午後」もあるのを知らない人が多いが、実は夜中より活発だ。

 しかし、裏山の木々が成長したのか、お昼過ぎには境内全体が日陰に入るようになってしまった。

 日光の量が不足すると、カメラで捉え難くなるから、今はほとんど写らないし、写っても痕跡だけになる。

 正午頃には日向だろうが、しかし、その時間帯では撮影が難しい。もう少し寒くなり、葉が落ちてしまえば、撮影環境が良くなるのではないかと思う。

 何の示唆も無いとなると、「あの世を気にせず暮せる」から気楽になるが、その一方で、どことなく落ち着かない。

 ま、外へ出る度にぞろぞろと引き連れて来るのだろうから、「皆ここで流れに乗って先に進め」と祈念した。

 

 駐車場で画像を確かめたが、やはりはっきりしない。それでも、何百回も同じ構図を見ているので、「ここにこういう影は出ない」と判断できる。

 母子の姿は頻繁に写るのだが、片手で子どもを掴み、もう片手は胸の前に掲げている。

 要するに「お願い」する姿勢だ。

 神殿に向かって拝礼をしているのなら良いのだが、幽霊にはそういう事物が見えないから、「お願い」をする相手は私だろうと思う。

 誰も見てくれず、「そこに自分がいる」ことさえ気付いてくれない。だから、自分に気付く者がくれば、わっと飛びつく。溺れているような状態だから当たり前だ。

 こういうのは、別に恐ろしいことでも何でもない。

 もし溺れていれば、誰でも通りすがりの者に「助けて」と叫ぶ。

 嘘つき祈祷師や偽「霊能者」はこういう相手のことまで、「恐ろしいもの」として念の拳を振り上げる。お経や祝詞を上げて追い払う。

(もちろん、全部がそうではないが。)

 こういう時には、自分が一緒になって溺れないようにしつつ、なるべくその場から引き上げてあげるように心掛ければ、何ら不都合なことは起こらない。

 

 ちなみに、「霊」と「念」は似て非なるジャンルで、失せ物を探したり、人を呪ったりするのは「念」の領域だ。「幽霊」は人が死んで進む「次のステップ」だが、「生霊」は「念」から生まれたものだ。外見は似ていたりするが、別のもの。

 

 私は画像の中に「母子」の存在を感じるが、母親は幽霊で、子は母親の念によって生じたものだろうと思う。かたちだけがあり、実体が無い。

 要するに、子への愛情や未練が強すぎて、幽霊になったままでいるということ。

 そういう執着心があると、その感情に引き寄せられて来る者が近くに寄るから、母親の周囲には様々な「心根のよくない」者が集まっている。

 せっかく霊域に来ているのだから、もう少しで「自我の呪縛」から自分を解放できる。

 

 そこで、他のはまだ分かっていないから無理だが、その母親だけは「拾う」ことにした。

 「全然、オッケーだ。助けてあげる」

 もちろん、ツケは払って貰うけど(苦笑)。

 ということで、午前2時に目覚めてから、この母親のためにご供養をしている。

 ちなみに、儀式みたいなものは必要が無く、心を込めてその相手のために祈るだけでよい。「存在を認めて、敬意を示す」だけでよいのだ。

 

 今日の画像は難易度が高く、判別し難い。

 判別できる人が数人いるので、その人たちへのメッセージということ。

 追記)直後に撮影した画像を追加した。こちらの方が分かりよい。