日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎少女がいた(「総ての始まり」の続き)

f:id:seiichiconan:20200102062009j:plain
f:id:seiichiconan:20200103135006j:plain
御堂観音にて撮影

◎少女がいた(「総ての始まり」の続き)
 石碑の遠景には左側にも丸印をつけたのだが、正確には「人影」ではなく「視線」だ。

 指摘しても「誰も認識できない」と考えたので、あえて説明を入れなかった。

 「認識できない」のは、見ているのが私のことなので、他のひとが観てもそれと分らない(見ていない)ということだ。

 先ほど、たまたま画像を開いたのだが、少女のシルエットが出ていた。

 これで私自身は納得出来る。

 四号線を来るまで走っていた時に、私を呼び止めたのは、「私自身の内なる声」でも「妄想」でもなく、この少女だったということだ。

 (もちろん、それも「私にとって」の意味になる。)

f:id:seiichiconan:20200104192505j:plain

追加画像

 後で開くと、新しい影が出ていた。

 しかし、こういうのは私にしか分からないから、一般的には想像や妄想の域になる。

 何故「私にだけ分かる」かと言うと、「私はその場にいた当事者」であることと、「私(だけ)に向けたメッセージ」だということだ。

 実際にこの地を訪れても、ほとんどの人には何も起きない。

 異変が起きる要因は「この地」よりも「私」の方に重きがある。

 これは、こういうのを「見聞きする」条件と同じで、「波長が合う」かどうかということで、それ以上でもそれ以下でもない。

 実体として幽霊は存在するが、特別なこと(多くは「怖ろしい」と解釈する)ではない。

 

 たまに、その場に立ってもいないのに、あれこれ理屈を言う人がいるが、「実際に確かめる」ことを疎かにするのは、科学的な姿勢ではない。

 逆に、何でもかんでも霊的現象に結び付け、大仰に語る人もいるが、あくまでそれが「個人の主観に拠っている」ところが大きいことを自覚すべきだと思う。

 「ひとつ一つを確かめよう」とする姿勢が重要だ。