◎「三途の川」の話
病棟の隣のベッドの「ガラモンさん」の実体験だ。
ガラモンさんはちょうど一年前に心筋梗塞を発症した。冠状静脈が一度に総て塞がったので、見る見るうちに心停止まで進行した。
すぐに開胸手術を受けたのだが、その間は人工心肺を掛けられており、自分の心臓は止まっていた。
その時の話だ。
ガラモンさんが我に返ると、目の前に小川があった。
川幅はほんの五六メートルだから、まさに小川だ。
こちら側には森があったり、遠くに山が見えたりとごく普通の田舎の景色で、川向うも同じようなものだった。
ふと気づくと、向こう側に人がいる。
「あ。お祖母ちゃん」
この場合、「お祖母ちゃん」とはガラモンさんの母親のことだ。ガラモンさんはアラ六十歳で、母親を数年前に亡くしている。家族内で呼ぶ時には「お祖母ちゃん」だった。
その母親が川の向こうにいたのだが、母親は誰か知らぬ四五歳の子どもと遊んでいた。
ガラモンさんは「お祖母ちゃん」と声を掛けた。
すると、母親はその声に気付き、ガラモンさんの方を向いた。
娘に気付いたのだ。
すると、母親は急に険しい顔をして、右手を「しっしっ」というように振り、「遠ざかれ」という合図をした。
その顔があまりに厳しかったので、ガラモンさんは母親の近くには行かなかった。
「なんであんな顔をするんだろ」
そう思ったが、そこではっと気が付いた。
「お祖母ちゃんはもう死んでいるのだから、あそこにいるわけが無い」
その瞬間、また意識を失ったそうだ。
この話を聞いていて、私は思わず相槌を打った。
「それって、俺とまったく同じです」
私の持病は心臓だが、2、3年に一度ずつ治療を受けている。五年前に経過の思わしくない時があり、時々、心臓がしゃっくりを起こした。不整脈の酷いヤツだ。
そのことで意識を失った時に、私もまったく同じ場所に行ったのだ。
目の前には小川が流れている。ほんの数㍍の川幅のようなのだが、その反面、「渡り始めたら、結構長い」ような気もする。
私のいた側は赤茶けた砂漠なのだが、川向うには緑が生い茂っていた。
川岸には葦のような植物が二㍍くらいの高さに伸びていた。
じっと眺めていると、その葦が揺れ、人が現れた。
「あ。叔父ちゃん」
そこに姿を現したのは、十年ほど前に亡くなった叔父だった。
叔父は私を見ると、ほんの少し「おや」という表情をしたのだが、ゆっくりと右手を上げ、指で方角を示した。
叔父が指していたのは、私のいる方の川下のほう。
そっちに目を向けると、五十㍍くらい先に小山が見えた。
「あそこに行ってみろ、ということなのだな」
そう思い、そこに行ってみた。
地面からの高さは三十㍍ほどのそこ小山に上ると、向こう岸を遠くまで見渡すことが出来る。
川の向こうには、葦原があったのだが、その先には草原が広がっていた。
「田舎の放牧地の景色に似ているなあ」
そんな風に思った。
その草原には、ぽつんぽつんと人がいて、皆がどこかに歩いていく。
その人たちの向かう先を見ると、草原の上空に雲が浮かんでいるのが見えた。
鮮やかなピンク色の雲だった。
その雲の真下に、人々が到着すると、「ひゅううっ」と上空に上がり、次々に雲に吸い込まれて行く。
ゆっくり小山まで歩いたせいで、私の頭が冴えていた。
あちら側はもはや「この世」ではないことを既に悟っていた。
その時考えたことは、「インド人は凄い」ということだ。
インド寺院には極彩色の象やピンク色の雲が飾られているが、あれは事実だったのだ。
叔父があれを見せたのは、「こっちはあの世だぞ」と示すためだったに違いない。
そう考え、私は元来た道を戻ることにした。
どうやって、そこに来たのかは忘れていたが、砂漠の方に視線を向けたら、ぽっかりと黒い穴が開いていた。
「たぶん、あそこから出て来たのだ」
何となく、トンネルの中を歩いていたような記憶がある。
私が憶えているのは、ここまでだ。
あの川はおそらく「三途の川」というものだ。
生と死を隔つ境目ということになる。
現実にあの川が存在するのではなく、おそらくひとが持つ、共通の心象風景なのだろう。
死ねば五感を失い、脳が使えなくなるから、合理的な思考が出来なくなる。
そこで見るもの聞くものの総てが、自ら創り出したイメージになる。
実際にそこに川があるわけではないが、当人(死んでいるが)にとっては、存在するのと同じことだ。もはやその世界の中で過ごしている。
いずれあの川を渡ることになるのだろうが、あの川は幅が狭いとはいえ、深さはかなりある。
「どうやって向こう岸に渡るのだろう」と思ったのだが、なあにそんなことは簡単だった。
水の上を「歩いて」渡れば良いのだ。
その時に、生前の執着心を抱えたままだと、その重さに沈んでしまいそうになる。そこで、身を軽くするために次々に捨てることになるのだ。
皆がそこで捨てるので、その川の底には、お金や装飾品など、生前の欲に塗れたものが沢山沈んでいる。