◎フェイクのようでフェイクではない
この週末は、「外出を控える」要請が出ていたが、朝からかなりの降雪で、出ようにも出られない。「午後には雨に」という予報だったが、正午を過ぎても、こんこんと雪が降り続いている。
「一年前はどうだったか」
ちょうど一年前の画像を開いてみた。
最も近い日にちは四月一日だから、それを開くと、やはり桜が満開だった。
まだ散り始めていないから、まさに満開。
この時期は、やはり心も体も軽くなる。
気温が徐々に上昇すると、心臓への負担が軽くなり、胸の重みが和らぐ。
また、例年、十一月に始まり三月まで続く「幽界との交流月間」も、この時期に終わり、夏まで穏やかな暮らしを営むことが出来る。
この季節に起きることと言えば、例えばこんな風だ。
台所で夕食の支度をしていると、玄関のドアの鍵が「ガチャ」と音を立てる。
時計を見ると、午後五時だ。
「誰が帰って来たのだろ」
扉が開き、誰かが中に入って来る気配がある。
その「誰か」が玄関から廊下を歩き、居間に向かう足音が聞こえる。
居間のドアが「チャ」と音を立てる。
そこで、「何だ。早かったな」と声を掛ける。なお、台所の中からは、居間の扉は見えない。
しかし、返事が無い。
そこで、首を出して確かめると、居間の扉が少し開いている。先ほどの「チャ」は、実際にその扉が開いた音だ。
トイレでも我慢して来たのか、と考える。入り口のところに荷物を置き、トイレに入ったのか。
そのまま待っているが、しかし、それきりだ。
そこで、台所を出て、廊下に行くが、トイレには誰も入っていない。
念のため、二階にも上がってみるが、そこにも誰もいない。
ポイントは「居間の扉が開いている」ということだ。この時期は寒いから、部屋の扉を必ず閉める。なお玄関の扉の方は閉まっている。
こういう感じのことが、毎日、繰り返して起きる。
もっとも酷い時には、玄関口で家人の「声」が聞こえたりすることだ。
正確には、「家人のような声色の話し声」だが、ボソボソと話す声が響く。
これが毎日のように続くから、精神状態がおかしくなる。
季節の終わりには慣れて来るのだが、この手のが起きる度に、「おい。いい加減にしろ。俺は忙しいから、お前に付き合っている暇はない」と言い捨てるようになる。
だが、こんな苦痛も「桜が咲くまで」で、その後は割と楽になる。
「静けさ」の有難みは、こういうのを経験して初めて分かる。
今は「そんなのは気のせい」「心の病気」と笑う者が多いと思うが、いずれ死期が近づけば、誰でもたっぷり味わえると思う。不幸なのは、むしろ死期を悟ることなく、あの世も感じる暇もなく死んでしまうことだ。この世への未練や、誰かへの恨みごとを持たなくとも、死ぬと幾ばくかの期間は幽霊になる。
死後の心構えを持たずに死んだ者は、幽霊でいる期間が長くなる。
少し脱線したが、昨年の画像を開いてみて発見したことがあった。
この時の画像は、母の一周忌で郷里に帰った後、関東に戻った直後に撮影したものだ。
神殿前の画像で最初に目についたのは、背後の門の四角い枠の中に少女の顔が見えることだ。
だが、こういう感じのは、大体がフェイクで、「たまたまそう見えた」という性質のことが多い。しかし、そもそもひとが「見ているもの」「聞いているもの」「感じるもの」は、皆あやふやで頼りないから、あえてこういうのも「こんな風に見える」として置く。
「死後」「あの世」を観察するには、特別な能力など不要だということを示すためだ。
あやふやなものだから、見間違いや聞き間違いがあっても不思議ではないし、気にせずどんどん先に進むことで真実に接近できる。
そこで、少し拡大してみると、やはり少女の顔は消えた。そこにある事物のかたちを利用して現れることもあるのだが、一変することは無いから、「やはり気のせいだったか」と納得した。
しかし、本来、私と家人の背後には内門とその向こうの建物が見える筈なのだが、何やら腕のようなものが映っている。
その腕の向こうには、女性の顔がある。どうやら、二段構えの構図だったようだ。
だが、はっきりしないのは、むしろ幸いなことだ。
けして気を許してはならないのだが、標的にされなくなるのは助かる。