日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎フェイクのようでフェイクではない

f:id:seiichiconan:20200329130352j:plain
f:id:seiichiconan:20200329130342j:plain
f:id:seiichiconan:20200329130331j:plain
f:id:seiichiconan:20200329130320j:plain
f:id:seiichiconan:20200329130308j:plain
昨年4月1日撮影

◎フェイクのようでフェイクではない

 この週末は、「外出を控える」要請が出ていたが、朝からかなりの降雪で、出ようにも出られない。「午後には雨に」という予報だったが、正午を過ぎても、こんこんと雪が降り続いている。

 

 「一年前はどうだったか」

 ちょうど一年前の画像を開いてみた。

 最も近い日にちは四月一日だから、それを開くと、やはり桜が満開だった。

 まだ散り始めていないから、まさに満開。

 

 この時期は、やはり心も体も軽くなる。

 気温が徐々に上昇すると、心臓への負担が軽くなり、胸の重みが和らぐ。

 また、例年、十一月に始まり三月まで続く「幽界との交流月間」も、この時期に終わり、夏まで穏やかな暮らしを営むことが出来る。

 この季節に起きることと言えば、例えばこんな風だ。

 

 台所で夕食の支度をしていると、玄関のドアの鍵が「ガチャ」と音を立てる。

 時計を見ると、午後五時だ。

 「誰が帰って来たのだろ」

 扉が開き、誰かが中に入って来る気配がある。

 その「誰か」が玄関から廊下を歩き、居間に向かう足音が聞こえる。

 居間のドアが「チャ」と音を立てる。

 そこで、「何だ。早かったな」と声を掛ける。なお、台所の中からは、居間の扉は見えない。

 しかし、返事が無い。

 そこで、首を出して確かめると、居間の扉が少し開いている。先ほどの「チャ」は、実際にその扉が開いた音だ。

 トイレでも我慢して来たのか、と考える。入り口のところに荷物を置き、トイレに入ったのか。

 そのまま待っているが、しかし、それきりだ。

 そこで、台所を出て、廊下に行くが、トイレには誰も入っていない。

 念のため、二階にも上がってみるが、そこにも誰もいない。

 

 ポイントは「居間の扉が開いている」ということだ。この時期は寒いから、部屋の扉を必ず閉める。なお玄関の扉の方は閉まっている。

 こういう感じのことが、毎日、繰り返して起きる。

 もっとも酷い時には、玄関口で家人の「声」が聞こえたりすることだ。

 正確には、「家人のような声色の話し声」だが、ボソボソと話す声が響く。

 これが毎日のように続くから、精神状態がおかしくなる。

 季節の終わりには慣れて来るのだが、この手のが起きる度に、「おい。いい加減にしろ。俺は忙しいから、お前に付き合っている暇はない」と言い捨てるようになる。

 だが、こんな苦痛も「桜が咲くまで」で、その後は割と楽になる。

 「静けさ」の有難みは、こういうのを経験して初めて分かる。

 

 今は「そんなのは気のせい」「心の病気」と笑う者が多いと思うが、いずれ死期が近づけば、誰でもたっぷり味わえると思う。不幸なのは、むしろ死期を悟ることなく、あの世も感じる暇もなく死んでしまうことだ。この世への未練や、誰かへの恨みごとを持たなくとも、死ぬと幾ばくかの期間は幽霊になる。

 死後の心構えを持たずに死んだ者は、幽霊でいる期間が長くなる。

 

 少し脱線したが、昨年の画像を開いてみて発見したことがあった。

 この時の画像は、母の一周忌で郷里に帰った後、関東に戻った直後に撮影したものだ。

神殿前の画像で最初に目についたのは、背後の門の四角い枠の中に少女の顔が見えることだ。

 だが、こういう感じのは、大体がフェイクで、「たまたまそう見えた」という性質のことが多い。しかし、そもそもひとが「見ているもの」「聞いているもの」「感じるもの」は、皆あやふやで頼りないから、あえてこういうのも「こんな風に見える」として置く。

 「死後」「あの世」を観察するには、特別な能力など不要だということを示すためだ。

 あやふやなものだから、見間違いや聞き間違いがあっても不思議ではないし、気にせずどんどん先に進むことで真実に接近できる。

 

 そこで、少し拡大してみると、やはり少女の顔は消えた。そこにある事物のかたちを利用して現れることもあるのだが、一変することは無いから、「やはり気のせいだったか」と納得した。

 しかし、本来、私と家人の背後には内門とその向こうの建物が見える筈なのだが、何やら腕のようなものが映っている。

 その腕の向こうには、女性の顔がある。どうやら、二段構えの構図だったようだ。

 

 だが、はっきりしないのは、むしろ幸いなことだ。

 けして気を許してはならないのだが、標的にされなくなるのは助かる。